昭和天皇

宮中祭祀

大正天皇に続き、昭和天皇に関する本を読んでいる。

まずは、原武史著「昭和天皇」から気になった記述をピックアップさせていただこう。

原氏は、昭和天皇の特徴として明治・大正天皇に比べて「宮中祭祀を大切にした」ことを挙げる。

大正天皇は貞明皇后との一夫一婦制を守るなどリベラルで、過去の天皇に比べて家族の団欒を大事にした。しかし若き日の昭和天皇に大きな影響を与えたのは、父親である大正天皇ではなく、ご学問所の教師たちであったという。

杉浦重剛

『東宮御学問所というのは、14年5月に高輪の東宮御所に設けられた皇太子の教育機関のことである。皇太子は同年4月に学習院初等科を卒業してから、5人の学友とともにこの新しい学校に入学した。5人とはいえ集団教育にしたのは、学習院中等科を中退して個人教育に切り替えたことで、精神的な孤独感や情操面の欠如がもたらされたとする大正天皇の教訓を踏まえたからであった。

この学校で皇太子に大きな影響を与えたといわれるのが、倫理を担当した杉浦重剛であった。杉浦は講義の方針として、第一に「三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと」を挙げ、14年6月22日から始まった講義でも、「三種の神器」をまず取り上げた。』

時代背景としては2011年に起きた「南北朝正閏論争」があった。

前の年の国定教科書「尋常小学日本歴史」の教師用教科書で、南北朝時代について南北朝を対等に扱い、両朝のどちらが正統化は論ずるべきでないとする執筆者に対し、南朝正統論者から非難の声が上がり、桂太郎内閣が南朝正統説の採用を閣議決定したのだ。

しかし、天皇家は南朝ではなく、北朝の血統を継いでいるため、「三種の神器」の重要性がにわかにクローズアップされたのだ。

『この思いは、杉浦重剛にも共有されていたのではなかろうか。南朝正統論が確立した1911年以降、「三種の神器」は「万世一系の皇統」を担保する神聖なものとなった。明治天皇はもちろん、大正天皇にもおそらくはなかった意識を、昭和天皇は皇太子時代から、決して見てはならない神器に対して抱くようになる。』

白鳥庫吉

もう一人、皇太子時代の昭和天皇に大きな影響を与えた教師がいる。国史を担当した白鳥庫吉である。

『白鳥が著した東宮御学問所の教科書「国史」を見ると、それが一般の教科書とは違って、徹底して天皇中心であり、神武から明治に至る歴代天皇の「聖徳」が強調されているのがわかる。

注目すべきは、東宮御学問所での学習の一環として非公式の地方視察がしばしば行われ、その途上、皇太子が5人の学友とともに、伊勢神宮や平安神宮、宮崎神宮など、天皇とつながりのある神社ばかりか、関西を中心に分布する天皇陵や、佐渡や隠岐に流された天皇の火葬塚などを数多く参拝していることである。

今日では、天武・持統天皇合葬陵と天智天皇陵を除けば、古代の天皇陵で被葬者が一致するものはほとんどないという見方が有力になっている。

だが、神武以来の歴代天皇をすべて実在したと見なす白鳥は、神武天皇陵について「日本書紀」の記述のままに、あたかも陵がずっと存在していたかのように教えた。おそらく、他の天皇陵に触れる場合でも同様であったろう。』

神武天皇陵は、1863年に築造が始まった。つまり、明治期に盛んに行われる「創られた伝統」に過ぎないのだが、若い時に教わったことは事実として頭に染み込むものだ。

私のような戦後育ちの庶民の子供ですら、楠木正成が正義の味方として教えられた記憶がある。ましてや、戦前の天皇家においてどうであったか容易に想像がつくところだ。

女官制度

昭和天皇が断行した施策の一つが、「女官制度」の改革だった。

『裕仁は天皇になるや、24年の結婚に際してすでに骨子が定まっていた女官制度の改革を実行に移した。皇太子時代から引き続き住んでいた赤坂離宮では皇后宮職がおかれたが、ここに所属するのは女官長、女官、女嬬の3ランクのみで、定員は女官6人、女嬬7人に過ぎなかった。女官は既婚の女性とし、源氏名を廃止するとともに、通勤制も導入した。側室制度は名実ともに廃止されたのである。

一方、皇太后が27年から住み始めた青山御所には、皇后宮職とは別に皇太后宮職がおかれた。ここでは、従来と同じ典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦、女嬬、権女嬬といった女官の階級が厳格に保たれ、定員も合わせて69人と、皇后宮職よりはるかに多かった。

皇后宮職と皇太后宮職の間に生じた著しいアンバランスは、あたかも天皇と皇太后の微妙な関係を象徴するかのようであった。』

昭和天皇の母であった貞明皇后は、大正天皇との間に4人の男子を設け、天皇家に初めて一夫一婦制を持ち込んだ人だったにも関わらず、大正天皇の死後は「神がかり」、天皇を悩ませることになる。

明治天皇の再来

一方、昭和天皇を巡る政治や社会の思惑も活発化する。

『大礼に先立って、天皇自身のカリスマ化が図られた。それは「践祚して間もない昭和天皇を、明治天皇の再来と見なすキャンペーンを通して進められた。

元号が昭和に変わった翌年の27年には明治節が制定され、大礼直前の11月3日は初めての明治節となった。また27年10月には、大日本雄弁会講談社の大衆雑誌「キング」が、「明治大帝」の箱入り別冊を付けて、140万部も発行された。「明治大帝」は、「キング」の記者が関係者に取材し、偉大なる明治天皇像を描くようにまとめたもので、践祚して間もない昭和天皇のイメージ形成にも少なからぬ影響を与えたように思われる。』

28年11月には即位の大礼が京都御所で行われ、NHKは天皇が京都に向かう日から東京に帰る日までの模様を、逐一ラジオで全国中継した。

『東海道本線では、御召列車に対向する列車の便所が、行き違う30分前から使用禁止になったほか、名古屋駅や京都駅の便所には白い幕が張られ、天皇の視界から遮断された。これもまた大正大礼ではなかったことで、<穢>の対極にある<浄>のシンボルとしての「聖なる天皇」が演出された。また御召列車が通る線と立体交差する私鉄によっては、電車の運転を取りやめるばかりか、御召列車が通過する前には架線の電流を停止させた。天皇の乗る列車の上方や下方に、電気が流れていること自体がおそれ多いとされるに至ったのである。』

天皇と名がつくと、得てして対応が過剰になることは、今日でも変わりがない。普通にやっている人や行為を「不敬」だと言ってヒステリックに糾弾する輩が出てくるからだ。

こうした傾向が行き過ぎると悲劇を招くということを、私たちは忘れてはならないだろう。

親閲式

12月15日には、宮城前広場で8万3000人を集めて親閲式が行われた。東京では初めての親閲式だった。

『当日は朝から雨が降っていたが、天皇自身の判断で天幕が撤去された。式が始まると、天皇はマントも脱ぎ捨て、1時間20分にわたって台座の上で直立不動のまま挙手の礼をし続けた。天皇は自ら、「君民一体」を演出したのである。これ以降、宮城前広場では、親閲式や記念式典がしばしば開かれてゆく。天皇になり、神格化が強まるこの時期にあっても、生身の身体を人々の前でさらし続けたという点で、昭和天皇は明治天皇や大正天皇とは明確に異なっていた。』

形式を嫌い、民衆にも気楽に言葉をかけた大正天皇のスタイルとはまったく違うだけでなく、写真を極度に嫌い庶民の前に姿を見せることもほとんどなかった明治天皇ともまた違う。

そんな昭和独特の空気を作ったのは、政治や社会からの要請とともに昭和天皇自ら振る舞いも多分に影響したのかもしれない。

日中戦争が勃発し天皇の地方視察が中断されると、宮城前広場が天皇が人々の前に姿を現す最大の政治空間となる。この時期には、天皇は白馬にまたがり二重橋に姿を表すようになる。

『天皇が初めて白馬「白雪」に乗り、正門鉄橋に現れたのは、秋の靖国神社臨時大祭から9日後、漢口陥落の翌日に当たる38年10月28日のことであった。

同じ日の夜、天皇は再び提灯をもち、30分にわたって再び正門鉄橋に現れたが、昼間とは異なり、その横には香淳皇后がいた。

1日に2度も正門鉄橋に現れ、人々の歓呼に応えるという天皇のパフォーマンスは、当時の人々をして日中戦争の勝利を確信させたに違いない。この速過ぎるパフォーマンスは、おそらく天皇自身の意識をも呪縛することになる。実際には、首都を漢口から重慶に移してからも中国軍の抵抗は止まず、一方の日本軍は攻撃能力が限界に達していたにもかかわらず、天皇は現実を冷静に見極められない心理状態に陥ってゆく。

日中戦争の泥沼化により、天皇がこだわっていた勝利に伴う「東亜の平和確立」「時局の安定」というシナリオは、しだいに幻想となる。それとともに、天皇はしばしば独り言を漏らすようになった。』

2・26事件

こうした一方で、昭和天皇は「2・26事件」を起こした青年将校らに対しては一貫して厳しい姿勢を見せている。

意に反して戦争が拡大していく中で、天皇の心の中も揺れていたのだろう。そして、天皇には信頼できる相談相手もいなかった。

原氏の著書では随所に、母である皇太后や実弟である秩父宮や高松宮との微妙な関係、さらには昭和天皇が彼ら身内に対して警戒心を抱いていたことが記されている。

相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を斬殺した陸軍内の派閥対立やそれに続く2・26事件でも天皇と皇太后の間では考え方の違いが表面化する。

『太平洋戦争期の天皇は、宮中祭祀を継続しながら、祭祀権を事実上皇太后に奪われる格好になっていた。皇太后の念頭には神功皇后があったように見えるが、伝説ではなく歴史的に見れば、この時期の皇太后は、むしろ琉球王国における聞得大君と比較されるべきだろう。琉球には、行政権をつかさどる国王のほかに、祭祀権をつかさどり、国王の姉妹や王妃、王母が任命される聞得大君という女性がいたからである。聞得大君が国王になった例はないが、祭祀権が行政権を超えて効力を発揮した可能性は指摘されている。

一方で、天皇と高松宮との確執もまた、ますます激化した。』

A級戦犯

敗戦後、天皇は退位するかその地位に留まるかで悩んだという。

そして皇室の私的行事として宮中祭祀にもこだわった。戦時中、「平和の神」であるアマテラスに戦争祈願をした罪と過ちを謝罪し、悔い改めて平和を祈り続けようとしたのだろうと原氏は読み解いている。

天皇は戦後も靖国神社への参拝を続けたが、75年11月を最後に靖国神社を参拝することをやめた。

『78年10月、靖国神社は松平永芳宮司のもとで、ひそかにA級戦犯14人を合祀した。この合祀は、79年4月に明るみに出た。

宮内庁長官を務めた富田朝彦によれば、天皇は88年4月28日、「私は或る時に、A級が合祀され、その上 松岡、白取までもが、だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と話した。靖国神社に参拝しなくなったのは、松岡洋右や白鳥敏夫を含むA級戦犯が合祀されたからであることを、天皇自身が明らかにしたのである。』

軍部の介入

もう一冊、保阪正康著「昭和天皇」。

こちらは、原氏の著書に比べて、天皇家にやさしい記述が目立つ。昭和天皇やその周辺にいた人々に肯定的で、むしろその天皇の意思を無視する形で暴走する軍部に対する厳しい姿勢が特徴的だ。

そんな保阪氏の著書で、特に印象的だったのは、皇太子時代のイギリス訪問により「君臨すれども統治せず」というイギリス流立憲君主制について強い印象を受け、そのため意に反して軍部が暴走した際にも内閣が決めた方針に表立って反対することがなかったとした見方だ。

それでは、保阪氏の著書から、気になった部分を引用しておく。

まずは「昭和」という元号について。

『政府原案の新元号は、「書経」の「百姓昭明 協和万邦」から採り、「昭和」というのであった。政府はこの意味を「君臣一致、世界平和」であると説明した。』

世界平和を願った「昭和」の時代に、日本が戦争への道をひた走ったのは皮肉としか言いようがない。昭和に入ると、軍部の介入が始まった。

『「私たち侍従にもわかったことですが、即位前後から、特に陸軍が宮中の中に口を挟んでくるようになった。例えば、陛下は一週間か二週間に一度生物学の御研究所へお訪ねになる。それがお楽しみでもあったんです。それを陸軍がいかんと言い出したのです。それに政務室ではいつも軍服でというようなことも伝えてくるわけです。」

牧野は宮内大臣としての立場から、珍田捨巳は侍従長という立場で、このような相次ぐ申し出をやんわりと拒むということもあった。即位後は軍部の圧力が公然と宮中に押し寄せてきたとも言えた。この圧力は昭和十年代まで続きやむことがなかったのである。』

張作霖爆殺事件

昭和3年、関東軍が張作霖を爆殺する事件が起きると、天皇は激怒した。田中義一総理は当初、「もし日本側軍人の行為と確認されたら、法に照らして処罰する」旨の上奏を行なっていたが、その後「陸軍内部に犯人はいない、事件は警備上の不備であるがゆえに、その面で責任者の処罰を行いたい」と上奏した。また白川義則陸相は首謀者である河本らへの行政処分という軽い措置を上奏したため、天皇が激怒したのだ。

『すぐに田中を呼び寄せると、「初めに言ったことと違うのではないか。それで軍紀は維持できるのか。もう田中の言うことは聞きたくない」と激しく叱責した。田中は宮中から退出した後に、すぐ内閣総辞職の手続きをとった。

前述の岡本愛祐(東宮侍従)の証言をさらに紹介するなら、「陛下は嘘が大嫌いです。田中さんは、結果的にその嘘をついてしまったことになったのですから、陛下のお怒りは特に激しかったとそのころは侍従の間では語られていたました」と言う。そしてこのことが最も大切なのだが、と断ったうえで、「陛下はお若い時から日本に資源がないということをよくわかっておられました。資源をどうしても外国に求めなければならないだけに、万国平和、国際親善、それを満たしていなければならない。他国を侵略して、領土を広めて資源を取るなどというのは邪道だということを若い時からおっしゃっておられました」とも話している。

即位の後のこの出来事は、天皇には許しがたい暴挙そのものだったのである。それにしても、田中に対しての叱責は厳しいものであったが、結果として田中も二枚舌を使うような形になったがゆえにひたすら謹慎の生活を送ることになった。

天皇もまたこの時の自らの言動を気にかけていた。平成二年に明らかになった「昭和天皇独白録」では、この経緯を語った後で、「私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った」と話している。

そのうえで、「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へているが、とにかくそういう言い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした」とも明かしている。親任しないから辞職しろ、と命じたのは天皇自身だったということにもなる。昭和50年代の記者会見でも、「あの時は自分もまだ若かったので言い過ぎた。田中総理にはもう少し言いようもあったと思う。立憲君主としては、言い過ぎであったかもしれない」と答えている。

即位してからのこの初めての試練で、天皇は二つのことを学んだように思う。ひとつは、自らの感情を直接顕にしてはいけない、もうひとつは、立憲君主制という立場を自らに課している以上、直接にその任免を口にしてはいけない、この二点である。』

長々と引用したが、この張作霖爆殺事件の経験はその後の昭和天皇を縛ったという意味で、極めて重要だったと思う。

立憲君主としては、政治が決めたことを天皇がひっくり返してはならないと自戒してしまったのだ。軍部は直接意見を言わないことをいいことに天皇の思いとは裏腹に天皇の神格化を進め、軍部の考えを通すために「天皇」の権威を利用した。

統帥権干犯

昭和5年のロンドン軍縮会議での合意を巡る政府と軍部の対立には、「統帥権干犯」という用語が登場する。

『天皇の意思も国際協調路線にあるとみていた浜口雄幸内閣も調印を指示した。ところがこの政府の決定に反対の声が起こった。「政府は本来このような軍備に関する決定は軍令部に相談しなければならないのにそれを怠った。これは天皇の統帥権を犯すものだ」という論を振り回し、対米英協調路線をとる浜口内閣に反対したのである。

その後、海軍内部の強硬派の圧力や右翼テロによって浜口内閣は倒れる。そして海軍の穏健な将官たちも強硬派に押されて現役を離れることになった。

このプロセスで浮き彫りになったのは、「統帥権干犯」という語である。

天皇が、こうした内部事情にどのような判断を持っていたかは定かにはわかっていない。ただ強硬派の軍令部次長・末次信正には不快感を持っていた。政府側の見解に密かに信を寄せていたことだけはまちがいない。』

その後も続く軍部の暴走を前に、昭和天皇の意思はなかなか軍部には伝わらなかった。

満州事変

昭和6年に満州事変が起きる。陸軍中央も知らなかった関東軍の暴走。若槻首相は天皇に対し「この事件は拡大の方向にはなく、政府としても不拡大の方針を堅持したい」と上奏した。

『天皇は、若槻のこの報告に全面的に同意し、喜びの表情を浮かべたと伝えられている。

ところが、陸軍中央は必ずしも不拡大の方針ではなかった。現地の関東軍の参謀たちは、軍事行動を拡大させ、満州全域を制圧しようと考えていた。それに同調する参謀本部や陸軍省の幕僚たちも多く、陸相の南次郎へ伝えられた天皇の憂慮などまったく考慮しなかった。あまつさえ、幣原外相の外交交渉で解決をという考えに、「軟弱外交ではないか」と激しい批判を浴びせる事態になった。』

そして天皇の意に反し、戦線は拡大する。天皇は南陸相を呼んで「明治天皇が創設された軍隊にまちがいがあっては、自分としては申し訳がない」と注意を与えたが、事態を止めることはできなかった。

『昭和6年9月19日に報告を受けてから22日ごろまで、天皇は、明らかに激怒の感情を示していた。それは多くの資料や証言によってもあますところなく裏づけられる。

侍従武官長の奈良武次は、21日に天皇の政務室に伺候した時、ドアの前に立ってノックをしようとすると、中から天皇の声高のひとりごと、そして苦慮するときに部屋を歩き回るその靴音が聞こえて愕然となったと書き残している。

「・・・またか、また、こういうことなのか」

と天皇はひとりごとをつぶやいていたというのである。もとよりこのことは、張作霖爆殺事件の折の自らの判断を自省しつつ、しかし強く意思表示をしなければならないが、それでは立憲君主の政体に反するのではないかとの悩みでもあった。

侍従であった岡本愛祐の証言によれば、天皇は陸相の南に巷間語られている以上に、強い口調で朝鮮から「満州」への越境を叱責したというのである。

「このことは非常にお怒りになって、すぐ撤兵させよ、とおっしゃったけれど、ところがなかなか兵を引かない。上層部がすぐにそのようにいたします、と言いながら、軍人の若い連中が聞かない。それでとうとう錦州にまで進むことになった」

昭和6年9月の満州事変は、昭和史の上でも大きな出来事として記録されている。その後の運命を形づくることにもなったからだ。だが、このとき最も明確に「反対」の姿勢を示していたのは天皇自身だったのである。』

立憲君主

その後も昭和天皇の苦悩は続く。2・26事件では、青年将校に同情する声に一切耳を貸さず即時鎮圧と断固とした処分を命じたが、それでも戦争への道を止めることはできなかった。

そして天皇の相談役にあたる元老や宮廷の有力な官僚がしだいに宮中から離れていく。

『斎藤実や鈴木貫太郎は二・二六事件で殺害されたり、重傷を負ってその役を果たせなくなった。牧野内大臣も、宮中の中に入って15年にもなるので辞めたいと西園寺や木戸に伝え、すでに昭和10年12月にはそのポストを離れていた。

昭和11年11月のことだが、アメリカの駐日大使ジョゼフ・C・グルーはその日記に、日本はしだいに軍部が「好き勝手な真似」をしているように見えると書き、「西園寺、牧野、湯浅(倉平)、松平(恒雄)らは、昨今まるで姿を現さない」と書いている。天皇に助言役を果たしているこれらの自由主義者がしだいに宮中から足が遠のいていることを着実に見抜いて、本国に報告しているのである。』

そして翌年、昭和12年7月に盧溝橋事件が起き、日中戦争にと戦線が拡大していくのである。

急速に悪化する情勢を前にして、「立憲君主」という枠に最後まで囚われ自らの意思を軍部の末端にまで伝えることができなかったことが、昭和天皇の限界だったようにも思う。

物分かりのいい自省的な昭和天皇ではなく、思ったことをすぐに口に出した大正天皇の時代であったら、その後の歴史は少し変わったかもしれない。

しかし、一度動き出した熱狂は、天皇といえども止めることができないというのが歴史の教訓なのだろう。今の天皇も文字通り開明的であり良識的な方だけに、時代の狂気を押しとどめることを期待することはできない。それは天皇の役目ではなく、国民の責任なのだ。

令和の時代、平和に対する天皇の思いが侵されないよう私たちが努力するしかない。

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