日本人なら絶対知っておきたい韓国の歴史

今月末ソウルに行くため、韓国関連の本を図書館で借りて読んでいる。

その中で大変タメになったのが山﨑赤秋著「日本人なら絶対知っておきたい韓国の歴史」という新書だった。

この本は、俳誌『春耕』に「新韓国紀行」という表題で連載した物をまとめたということだが、朝鮮に関する多くの参考資料をもとに多くのエピソードが簡潔にまとめられていて、入門書としてはちょうどいい。

この本を読むと、隣国である朝鮮の間に古今いかに多くのエピソードが存在するのか、改めて気付かされた気がする。

この本の中から、いくつかのエピソードを書き残させていただく。

 

たとえば、儒学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)。琵琶湖の北側、高月町には「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」という資料館があるらしい。韓国の中高生を招き、民家でのホームステイといった草の根交流を実践している。

この人は江戸時代、朝鮮との民間貿易を一手に管理していた対馬藩に派遣され、朝鮮との交接に当たった外交官だった。

『その数多い著書のなかでも、藩主に朝鮮との外交の心得を説いた「交隣提醒」は名著で、次のような言葉で結ばれている。

「誠信の交わりとは、欺かず、争わず、真実を以って交わることである。それには、相手に面倒をかけないこと。従来の余勢による、惰慢の心を戒め、毅然たる態度が肝要である。さらに、相互の歴史を熟覧して、事の経過に精通して行かなければならない」』

この芳洲の言葉を現在の日韓両政府に贈りたい。

そして日韓両国民には、「相互の歴史を熟覧して」という部分が必要な気がする。まずはメディアから、そうした建設的な姿勢を求めたいと思った。

 

韓国併合の時代にも、韓国のために尽くした日本人がいた。

政略結婚で朝鮮王朝皇太子・李垠と結婚した梨本宮家の方子は激動の人生の晩年、精神薄弱児の教育に情熱を注ぎ、「韓国障害児の母」として敬愛されている。

朝鮮半島西南端の木浦で孤児院「木浦共生園」で30年間に3000人の孤児たちを育て上げた田内千鶴子は大韓民国文化勲章国民章を受章した。

同じく孤児たちの面倒をみたとして文化勲章国民章を贈られた曽田嘉伊智は、21歳から放浪をはじめ、長崎で炭鉱夫、国民学校の教師、ノルウェーの貨物船の船員、香港で英語の勉強、台湾のドイツ人経営の工場の事務員兼通訳、中国での海軍従軍、孫文の革命運動加担というどんでもない青年期を過ごしている。そんな彼が泥酔して路上に倒れ込んでいた時に介抱し食事をさせてくれたのが1人の朝鮮人だった。自分を助けてくれた人の国に恩返しをしようと決心し彼は朝鮮に渡った。今時耳にしない古き良き時代の豪快な日本人だ。

誰も見向きもしなかった朝鮮白磁に魅入られその研究に心血を注ぎ、「朝鮮古陶磁の神様」と言われた淺川伯教(のりたか)。「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発し、禿山だった朝鮮の山々の緑化を進めた弟の淺川巧。2人は朝鮮をこよなく愛し、朝鮮人からも慕われた。

その淺川兄弟との親交を通して朝鮮文化に関心を深め、雑誌「白樺」を通じてそれを広めた民藝運動の柳宗悦。

『柳は、植民地朝鮮の人々の苦悩にも深い共感を覚えるようになる。

1919年の3.1独立運動に対する日本の官憲による武力弾圧に心を痛め、「朝鮮人を想う」という一文を発表して、自らは朝鮮人の味方であると高らかに宣言をし、次いで、1922年には「失はれんとする一朝鮮建築のために」を発表し、景福宮正面の光化門の取り壊し反対を強く訴え、とうとう移設される。

1924年には、淺川兄弟とともに夢見てきた「朝鮮民族美術館」を景福宮内に開館させる。朝鮮総督府は、「民族」の二字を削れといってきたが、柳は頑としてはねつけている。』

今もきっと日韓の架け橋となって活動している多くの人たちがいるはずだ。

日本と韓国。すぐに国と国の感情的な対立になってしまうが、結局は人と人。

まずは相手のことを知り、過去の歴史を知り、相手の立場に立って物事を考え、敬意をもって接することから始めなければならない。

それは何も韓国に限った話ではないが、特に日韓の間にはその重要性が高い。

 

韓国の人たちから史上最悪の極悪人と見なされているは、豊臣秀吉である。そしてその時、日本軍を打ち破った李舜臣将軍が韓国最大の英雄となっている。その銅像はソウル中心部のほか、全国の公園や小学校の校庭に建てられているそうだ。その数300体。多くは1960年代に朴正煕大統領が作らせたものだという。

李舜臣将軍活躍の原動力となったのが亀甲船。船体を鉄板で覆い、屋根には鉄針を埋め込んで敵兵が乗り移れないようにしてある。前後左右の側面に開けた砲眼から相手を攻撃する。

この亀甲船を実物大に復元したものが、釜山の西、鎮海にある韓国海軍の士官学校内に係留されているという。鎮海には世界最大の桜並木があるそうで、春に一度行ってみたいものだと思う。

一方、日本では・・・

『日本にある記念碑はというと、京都市東山区にある「耳塚」である。豊国神社から西へ70〜80メートルいったところの巨大な五輪塔を頂く小山がそれである。戦死した朝鮮人・明国人の鼻や耳をそぎ、塩漬けなどにして埋めた場所である。最初は「鼻塚」と呼ばれていたが、林羅山が「豊臣秀吉譜」に、故意にか、まちがえてか、耳塚と書いて以来そう呼ばれるようになった。

従軍した大河内秀元の「朝鮮物語」は、約21万5000人分が埋められていると記しているが、どうもこれは誇大で、十数万人分程度らしい。とまれ、高さ7メートル強の塚を築けるほどの土が出たのであるから、相当の数の樽が埋められたことはたしかである。この塚の前に立ち、盛り土と同じ量の鼻や耳が埋められたと想像するだけで足が竦むのを覚える。』

この戦争、当然のことながら朝鮮に一切の非はない。日本を統一した秀吉がある日、明国に攻め込むことを思いつき、朝鮮にその道を開けろと言って大軍を送り込んだ一方的な侵略である。

歴史を振り返ると、戦争は常にトップに立つリーダーの都合で始まることがよくわかる。どれだけ文明が進もうとも、戦争のリスクは決してゼロにはならないのだ。

その一方、この出兵の際、朝鮮から多くの陶工が日本に連れてこられた。もちろん強制的にだ。その朝鮮人陶工たちが、日本の土で作り上げたのが、伊万里有田焼であり、萩焼であり、薩摩焼である。今や日本文化を代表するこうした陶磁器がもともと朝鮮の文化であることを知るだけでも、少し謙虚な気持ちになる。

 

本を読んでいて、自分がいかに韓国・朝鮮のことを知らないか、改めて思い知らされた。

たとえば、『韓国で一番有名な古典文学は「春香傳」である』。私は、知らない。『李氏朝鮮後期、金弘道という画家がいた。朝鮮が今までにもっと最高の画家である』。この人も、私は知らない。『李退渓は、朝鮮の儒学者の最高峰である故に紙幣の顔となっている』。やはり、知らない。

さらに、『新5万ウォン札の肖像にははじめて女性が採用された。その名は申師任堂という。韓国人に、韓国を代表する良妻賢母は誰か、と訊けば、10人中10人が彼女の名前をあげる。その上、朝鮮第一の女流画家であり、書にも優れ、詩も詠んだ。刺繍も上手だった』。彼女のことも、全然知らない。『韓国人が、もっとも親しみを感じる人物はというと、李朝末期の詩人・金笠の名前があがる』。当然、知らない。

こうした私が知らない、韓国の超有名人たちのことをこの本では簡潔に知ることができる。興味があれば、もっと詳しい本を読めばいい。

 

そして、ようやく私の知っている名前だ登場する。

閔妃。

大韓帝国皇帝・高宗の妃である。

『1895年10月8日未明、宮殿に侵入した暗殺団により閔妃は刺殺され、その遺体はすぐに焼却された。享年44。暗殺団は日本の公使であった三浦梧楼が集めた輩(日朝両国人)であったという説が有力である。大院君を擁立して親日政権を作ろうと企てたらしい。

しかし、どこかの国のテロリストが青山御所に侵入し、皇女を殺害したとしたら、その衝撃は如何ほどのものであろうか。』

閔妃暗殺の現場となったのは景福宮の一番奥にある乾清宮と呼ばれる宮殿である。

別の本に書かれていたところでは、この乾清宮は韓国人や外国人のツアーでは必ず案内される場所だが、日本人ツアーではここには行かないらしい。だから日本人は閔妃暗殺事件についてあまり知らない。私も去年景福宮に行った時、まだあまり知識がなかったので乾清宮には行かなかったと思う。今年改めて行ってみようと思っている。

そして伊藤博文を暗殺した安重根についても、日本ではテロリスト、韓国では「義士=民族の英雄」と、真逆の知られ方をしている。去年ソウルで安重根義士記念館を訪れたが、結局ブログに書けなかった。彼について私の知識が足りなかったからだ。今回ソウルに行った後に、安重根についても何か書ければと思っている。

 

日本による植民地時代を韓国では「日帝強占期」と呼ぶそうだ。

この時代の話は大まかに知っている話が多いが、「アリラン」「堤岩里教会虐殺事件」「春畝山博文寺」のエピソードは興味深い。「創氏改名」についても氏と姓の違いなど詳しく説明されていて参考になった。

さらに、ソ連によって強制移住させられた朝鮮人や日本によって樺太に連れてこられた朝鮮人が戦後見捨てられた話など、時代とはいえあまりにも気の毒なエピソードに胸が詰まる。

 

戦後の話になると、日本が登場しなくなるため少し気楽に読める。だた、冷戦下で起きた朝鮮戦争、今も民族分断状態が続く先の見えない状況が韓国の人たちの心情に与えている影響は容易に理解できるものではない。

従軍慰安婦や徴用工問題での韓国の反応は日本人を苛立たせる。

しかし、日韓政府が過去に合意したとは言っても、心の問題は簡単には解決しない。過去への反省を忘れたような発言が日本で出るたびに、古傷が疼くのだろう。そうした世論を無視できないし、政治家もそうした世論を利用して政敵を攻撃しようとする。韓国の国内状況は常に微妙だ。

加害者側から問題を終わらせるのは簡単ではない。

「天皇の謝罪」を口にした韓国の国会議長が日本で槍玉に上がっているが、あれは多くの韓国人の本音だろう。ひょっとすると、今の天皇陛下は政府が許せば韓国を訪れて、慰安婦の人たちの手を握り謝りたいという気持ちを持っておられるのではないかと想像する。しかし、政治がそれを許さない。おそらく日本の多くの国民もそれを許さないのだろう。

でも、天皇陛下がそれを望み、政府やメディアが過去の歴史を正しく国民に伝えれば実現できない話ではない気がする。

天皇訪韓。

私はその実現を願っている。

 

ちなみに今日2月16日は、韓国の国民的詩人・尹東柱(ユンドンジュ)が服役中の福岡刑務所で獄死した日だ。

日帝強占期の1942年、日本に留学した彼は、立教大学と同志社大学で学び、翌年7月治安維持法違反の疑いで逮捕された。そして終戦間近の1945年2月16日、27歳の短い生涯を終えた。

同志社大学には彼の詩碑が建てられ、戦後出版された詩集「空と風と星と詩」の冒頭を飾る「序詩」がハングルと日本語で刻まれている。

 

序詩

死ぬ日まで、天を仰ぎ

一点の恥ずることなきを、

葉あいを 縫いそよぐ風にも

わたしは 心痛めた。

星を うたう心で

すべて 死にゆくものたちを愛しまねば

そして わたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵も 星が 風に   むせび泣く。

 

尹東柱については、別の本を読んで彼のことをもっと知りたいと思っている。

 

 

 

 

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