日中戦争史

中公新書の大杉一雄著「日中十五年戦争史・なぜ戦争は長期化したか」を読み始めた。

与党が圧勝し、改憲勢力が衆参で初めて2/3を占める新たな政治状況が生まれる中で、過去の悲惨な歴史を学ぶ必要を感じる。

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明治維新から日清日露を経て大陸に権益を得た日本。一方の西欧列強は武力を用いて植民地を広げる帝国主義的な時代は終わろうとしていた。日本の大陸進出の動きは既存の秩序を乱すものと映った。

日中戦争に向かって動く昭和初期、この時代に親たちが生まれた。そう考えると歴史が身近に感じられる。

私の父が生まれた1928年。この年、中国では関東軍による張作霖爆殺事件が起きる。その3年後、1931年に満州事変が勃発。そして母が生まれた1933年、日本は国際連盟を脱退した。

満州事変が起きた時代背景を見てみる。

日本は日露戦争後1905年のポーツマス条約および日新善後条約によって、いわゆる「満蒙特殊権益」を手に入れる。これは旅順・大連を含む関東州租借権、長春以南の南満州鉄道経営権、鉱山採掘および森林伐採権、自由往来居住権および商工営業権、鉄道守備兵駐屯権などからなっていた。

20億円の国費と10万の英霊の犠牲において勝ち取った守るべき国家的遺産と言われていた。明治以来のいわゆる日本の大陸政策は、この満蒙特殊権益を維持するだけでなく、さらにこれを発展させようとする努力に他ならない。

日本と満州の関係は年を経るに従って深まり、1930年には在満外国人113万人のうち日本人が2割、当時日本国籍であった朝鮮人を加えると全体の9割を占めた。

そうした中で1929年に起きた世界恐慌。失業者の激増、中小企業の没落、農村の荒廃が進み、日本経済は何らかの脱出策が要求されていた。もともと狭隘な国土、貧弱な資源、過剰な人口に悩む日本では、すでにアメリカへの移民の道も閉ざされ、満州こそが日本の海外発展の向かうべき土地であり、対ソ戦略のうえからも「満蒙は日本の生命線」と言われるようになった。

しかし高まる中国ナショナリズムにより在満居留民は反日・排日政策に苦しめられるようになる。居留民たちは28年「満州青年連盟」を結成し日本政府に対して対満強硬政策を要求し、内地に遊説隊を派遣して講演会や関係方面に対する説得工作を行った。指揮者の小澤征爾の父・開作は青年連盟の幹部で、征爾の征は板垣征四郎から、爾は石原莞爾からとったのだという。

一方財閥・既成政党癒着のスキャンダルが続出し、軍部の一部は国内体制の革新を志向しつつあった。いわゆる昭和維新運動である。満州事変もこれに関連していると見ることができる。

さらに1914年から18年の第一次世界大戦と国際連盟の誕生による新秩序、1919年のロシア革命による共産主義に対する警戒心が当時の世界を覆っていた。

そうした中で大杉氏は、「塘沽停戦協定」に注目する。

母が生まれた直後の1933年5月31日に中国軍との間で締結された。これにより満州事変に伴う軍事行動は一段落したのだ。これから37年の盧溝橋事件までほぼ4年間、日中の間に本格的な戦闘はなかった。ここで軍事行動を終結させることを政治家のみならず軍中央も考えていた。

国際連盟脱退にもかかわらず15年戦争の中休みのような時期だった。34年には「ハチ公」の銅像が建てられ全国的な話題となり、35年には「東京音頭」が大流行、全国の盆踊りで多くの国民が踊り狂った。

一方で、満州事変は中国国民の間に激しい抗日意識を高揚させた。停戦協定後もゲリラが長城を越えて熱河省へ侵入してくることがしばしば起こった。関東軍はこれら抗日勢力を匪賊と称し討伐に当たった。マスコミは紛争の原因は中国側が停戦協定を守らないことで非は中国側にあるとの論調だった。論壇はすでに満州事変と満州国建国を是認しており、中国ナショナリズムに対する理解と同情を失っていた。

そして盧溝橋事件により、つかの間の「平和」はあっけなく破られることになる。

 

歴史を振り返ると、引き返すチャンスは何度もあった。しかし、人は目先の状況に懸命に対応しようとして判断を誤る。大局的に時代を捉えコントロールすることは、いつの時代も極めて難しいのだ。

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