攘夷

夕方、東京でも春雷が鳴った。晴天がにわかにかき曇り、突如激しい雷雨が街を襲った。

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今日は4月3日。多くの会社で、入社式が行われ年度が改まる。

入社式で多くの社長さんは「我が社を取り巻く環境が激変する中・・・」などと毎年話すものだ。確かにITや国際化の進展に伴いどの業界でも大きな変化への対応が求められている。だが、太平洋戦争の敗戦後や明治維新の価値観の大激変に比べれば大したことはない。

司馬遼太郎著「花神」中巻(新潮文庫)の冒頭で、司馬さんが「攘夷」というものについて語っている。興味をそそられたので引用させていただく。

『 ここで、「攘夷」というものの歴史的評価について、ほんのすこし考えてみたい。 一種の国際知識や感覚の欠陥状態からうまれる排外思想、と定義してしまえばそれでミもフタもなくなるが、エネルギーとして評価すれば、人間が社会を組んでいる場合、集団としてこれほどのエネルギーをおこす精神はほかに類がない。

たとえば時のみかどである孝明帝は、外国についての知識は皆無であった。それどころか、天皇というものの歴代のしきたりとして御所の塀のそとに出ることがなく、京都郊外さえ見たことがなかった。もっとも孝明帝は文久三年に賀茂行幸などをして、わずかに市中の風景に接した経験は持っていたが。 さらに孝明帝は、これは信じがたいほどのことだが、鎖国主義は神話時代からの日本の祖法であると信じておられた。徳川初期、徳川家が自家の体制を守るために外国との交際を断ったという歴然たる歴史的事実を、ご存知なかった。 これはこの帝の教養の問題ではなく、全国津々浦々に五月蝿のようにわきおこった攘夷志士の九割九分までが、鎖国が徳川幕府によって出発したことを知らず、神代以来のものであると信じていた。 その理由の全ては、この時代、日本歴史についての全時代史(通史)がなく、ただひとつ、頼山陽の「日本外史」があっただけというものであった。その山陽の「日本外史」も、はじめ頼家に蔵されて世に出ず、天保年間にはじめて印刷され、列強の極東侵略のうわさが高くなった嘉永初年ごろから大いに世に流行するようになった。江戸期というのは世界史に類のすくない教養時代というべきだが、その教養のうちの史学面というのは中国の史書を読むことであって、日本史の研究ではなかった。要するに幕末人は、上は大知識人から下は「浮浪」と言われた攘夷浪士にいたるまで、「日本外史」一つが日本歴史を知る上での唯一の書であった。このため、幕末のぎりぎりになってから、相当な志士のあいだで、「鎖国というのは、じつは徳川家がつくった制度だそうな」ということが、きわめて新鮮なトピックスとしてささやかれはじめたほどである。

本来、島国で閉鎖的に暮らしている単一民族にとって攘夷感情というのは、ごく自然な土俗感情であるが、この土俗感情に崇高性が付加されたのは、「京の天子でさえ」という風説であった。すでに朱子学、水戸学、国学といったものの普及で、尊皇というのはごく普遍的な思想になり、理論化されており、それが沸騰する攘夷の土俗感情に行動性を与え、さらに集団化させ、物質力にさせて、ついには幕府を揺さぶるにいたったのである。攘夷というこの固陋な感情や理論が革命の力になったのは、そういうことであった。』

『 「攘夷」についての余談をつづけたい。 福沢諭吉のような開明派からみればおよそ愚劣な、「私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ」と福沢がそうまでののしったその攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させたのである。福沢のような開明主義では明治維新は成立しなかった。攘夷エネルギーで成立した明治維新が、世界史上類のない文明開化方針をとったのは皮肉なようにみえるが、歴史はこの点、化学変化のふしぎさに似ている。福沢のような開明主義では、本来国家を一変させるエネルギーをもっていないのである。 ついでながら、佐幕開明主義というグループが存在したが、これではとても歴史は動かない。というのは、この時代、むしろ幕府方のほうに開明家が多かった。

「とすれば」という議論がある。「薩長による明治維新がなくても、幕府中心で結構、開明国家になったはずである」という議論だが、これでゆけば、清帝国のままで孫文の中華民国もできたし、さらには毛沢東の中国もできたという議論にひとしい。清朝末期にも洋式海軍があったし、開明的な政治家や思想家もいた。しかしながらそれらの開明主義というのは、国家と社会を一新させるエネルギーにはならないのである。

幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうための大エネルギーは、この攘夷熱を除いては存在しなかった。福沢は蔵六や長州人の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅は極めて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶應義塾も、あのような形にはあらわれ出て来なかったことになる。

さらに反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大幻想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。

「攘夷」というものが、福沢のいうようなばかばかしいものではなく、攘夷が思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後激動期の歴史の上でのさまざまな魔法を生んでゆくのである。』

確かに、現状変更程度の変革では既得権益は厳然として残る。明治維新の凄まじさは、将軍や大名をはじめとする既存の秩序をぶち壊し、新たな仕組みを一から構築したことだ。

常識的な判断では絶対にできない。いろいろ経験した大人にはほぼ不可能な仕事だ。

若者の無知とエネルギーこそが大変革を成し遂げる。それは必ずしも良い結果を生むとは限らない。ポルポトや文化大革命もこうした大変革に属する出来事だろう。

ただ、結果として新たな時代を切り開き、後世の人から進歩と位置付けられる出来事もそうした大変革から生まれるのだ。

インターネットが定着し、誰もが情報を発信しつながることができる社会の中で、そろそろ過去に例のないような大変革が起きる予感がする。

果たしてそれは良い変革か? それとも悪い変革なのだろうか?

 

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