戦後処理

きのう8月1日は、34回目の結婚記念日。どこかでディナーでも食べようかと言っていたのだが、岡山で外食も多かったので家であっさりがいいということで一致した。

帰宅すると妻が、「花でも買ってくるのかと思った」と言う。確かにこれまで花を買って帰ったこともあった。今年はそんなこと考えもしなかった。

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先週末、岡山空港に着いたとき大勢の中国人観光客がレンタカー待ちをしていて驚かされた。岡山にもこんなに来てるんだ、と見慣れぬ光景に改めて驚く。

アジアと日本。小林英夫著「日本軍政下のアジア」に戦後処理について書かれていた。

1945年11月来日したポーレー賠償調査団は、日本の工場設備を撤去しアジア諸国の戦後復興に転用する案をまとめた。これにマッカーサーが反対した。冷戦が深刻化し、対日賠償の徹底化に反対する勢力が陸軍省、GHQ内部で力を伸ばし始めた。

47年1月に来日したストライク調査団は、純軍事施設以外の一般工業部門の撤去を大幅に緩和した案をまとめる。48年1月、1億6500万円相当の工作機械などが撤去され、中国・フィリピン・オランダ・イギリスに搬出される。

そして48年3月来日したジョンストン使節団は、6億6200万円の賠償額を提示。設備の撤去を極力おさえ、日本の戦後復興と貿易の拡大、それを通じたアジアの工場としての日本の実現という見取り図が前面に登場する。

これと同時に、アメリカ・イギリス・フランスなど主要連合国は賠償請求権を放棄していく。この結果、日本に対し厳しい態度で賠償を求めてきた東南アジア諸国も後退を余儀なくされた。

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対日賠償緩和の方向は、49年10月の中華人民共和国の成立、50年6月の朝鮮戦争勃発により決定的なものとなる。共産主義に対抗するため日本の軍事的重要性が高まったのだ。

そして51年9月、サンフランシスコ講和会議が開催される。

この講和会議は一切の審議・修正が認められない調印会議として米英両国が招請したもので、連合国55カ国のうち、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請されたが参加せず、中国は代表権を巡って対立があり招請されなかった。

アジアの国々は「連合国が個別に賠償を希望するときは、その賠償に応じなければならない」とする第14条を設けることで調印に応じたが、ソ連、チョコスロバキア、ポーランドは調印せず、日本を含めた参加52カ国のうち49カ国が調印した。

この中国が招請されなかったサンフランシスコ講和条約は、日本の戦後責任と戦後補償を曖昧にする重大な問題を含んでいた。

その後、ビルマ、フェリピン、インドネシア、南ベトナムは日本と個別に賠償を取り決めたが、イギリスの植民地だった香港とマラヤはイギリスにならって事実上賠償権を放棄させられた。のちに独立したマレーシアとシンガポールは改めて日本に賠償を求め実現した。

ただ問題は、日本の賠償は各国の復興と経済建設に充当され、従軍慰安婦、ロームシャ、賃金未払い、軍票問題など、直接の被害者に対する補償には使われなかったことだ。

これは折から成長を開始した日本の重化学工業に安定的な市場を提供する意味を持っていた。日本側が、経済外交として賠償を位置づけていたことがわかる。

日本の賠償は、国家と国家の間の問題として、被害者抜きの形で行われてきたのだ。

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