大衆の人気

司馬遼太郎「翔ぶが如く」第三巻に、あるあるの記述があった。

『外国人で日本の政治史を専攻する人が、日本人の感情でどうにもわからない面があるというのは、一つの体制を作った人物を好まず、そこからはみ出て漂白してしまう人物を好むということである』

言われてみると、なぜか考えたこともないが、日本人には勝者ではなく敗者を好む傾向がある。外国、特にアメリカや中国では、やはり強い者が支持される。

司馬さんの指摘を見てみよう。

『たとえば鎌倉の武家体制というのは日本の政治史上、日本の生産社会の現実に立脚した最初の体制であることには、大方異論はないであろう。さらに今日に至るまで、日本人の社会意識も歴史的には多分にそこから出発していることについても、ほぼ異論がなさそうに思える。この体制は、前時代の律令体制という、中国に模倣してしかも公家中心主義という多分に擬似的なものから見れば、日本史のいかなる時代の変革よりも革命的であった。ところがこの体制を樹立させた源頼朝には大衆的人気は全くと言っていいほどなく、そこから脱落してむしろ公家方に取り込まれた源義経の方に、大衆の愛情は時に際限もなく傾いてゆくのである。 この比較法は、豊臣秀吉と徳川家康の場合にも通用するようにも思える。 秀吉は天下統一をした。さらには桃山期という絢爛豪華な文化史的時代を招来させ、その先頭に立っての指揮者になった。しかし内政的には暴虐なことが多く、自分が養子にして関白職を譲った秀次に対し、ありえないような謀反の罪を被せてその妻妾子女を虫でも殺すように殺した。無意味な外征と失うことのみ多かったその結果についてもそうであった。たれも賛成していなかったこの外征が、秀吉一人の意志から出たという点で、秀吉の責任は弁護の余地がない。 それに対する家康は、身を慎む点では小心なほどであり、生涯独裁者的な残忍性を発揮したことがなく、さらには、たとえそれが彼の徳川家一軒にとっての利益と重なるものであったにせよ、内乱を終止させるという点において堅牢無比ともいうべき江戸体制を作った。ところが秀吉に比べると、後世の人気は家康においてはるかに貧困である。その理由の一つは、家康という人格的印象が陰気であることに引き換え、秀吉という人格が目もくらむほどに陽気に感じられるからであろう。陽気な人格というものは欠点でさえ愛嬌になり、失敗でさえ気の毒になるという効用を持っているが、陰気ということは、いかに誠実で謹直であっても、得体の知れぬ腹黒さを感じさせるということがあるらしい。  大久保が西郷に対比される場合も、それにやや似ている。 大久保には、世間の感覚から見れば全く徳がなかった。彼はこの上なく謹直な男で、およそ栄耀に驕るというところがなかったが、彼がのちに外国人を招待するためにたてた粗末な西洋館の住宅でさえ、薩摩人を激昂させ、歌舞伎における赤面のように驕りに驕った大久保像として流布された。歴史像としての大久保はなおそういう風土の中にいる』

私も幼少期から、秀吉が好きだった。家康は何かずるい奴という印象があり、嫌いだった。これは多分に、多くのドラマや映画でそのように描かれているのを見たことに起因するものだったと思う。「太閤記」は読んだことがあるが、家康の本は一度も読んだことがない。

西郷さんについてはそれほど詳しく知っているわけではないが、確かにポジティブで親しみやすいイメージがある。それに対し、大久保利通については何のイメージも持たずに生きてきた。しかし、地元鹿児島でも人気がないのだとすると、大久保さんが好きな人は少ないのだろう。

しかし、今頃になって、歴史に興味を持ち、少し本などを読み始めてみると、私は西郷よりも大久保を評価するようになった。

若い頃に同じ本を読んでも違った感想を持っただろう。サラリーマンとして様々なポジションを経験した今だからこそ、大混乱の中で新国家の骨格を作り上げた大久保という人物のすごさを感じるのだ。

秀吉と家康で言えば、私はやはり秀吉を評価する立場だ。人気というのとはちょっと違う。太閤検地や刀狩りなど、天下統一の形式を整えたのは秀吉の知恵だ。破壊の神だった信長の後に、天才設計士・秀吉が現れたのは奇跡のような気がする。そして諸刃の刃のような秀吉の後を家康という実務家が引き継ぎ300年の太平を開いた。本当によくできた組み合わせだ。

いずれにしても、大衆の人気などというものは、表面の印象にすぎない。それが、噂や芝居の形で広まればそうした印象が決定的なものになって固まるのだ。

それは今の時代も変わらない。「インターネット」という名の噂と「メディア」という名の芝居。政治家の本当の価値は後世の研究者に委ねられる。しかし、研究者が正当な評価を下したとしても、大衆の人気を変えることは至難の技というものだろう。一旦ついたイメージは拭えないものである。

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