大正天皇

原武史著「大正天皇」を、興味深く読む。

先日、東京西部の多摩陵を訪れたが、明治天皇や昭和天皇に比べ、私たちの世代にとって大正天皇に関する知識は極めて少ない。

押し込められた天皇

原氏は、「序章 悲劇の天皇」の中で、大正天皇を「押し込められた天皇」と書いている。その項を引用させていただく。

『 大正という時代は、世界史的に見ても君主政治の危機の時代に当たっていた。第一次世界大戦が終結する1910年代後半から、ロシア、ドイツ、オーストリア、トルコなど、主にヨーロッパ各地で君主制が相次いで崩壊し、共和制に移行した。

そのような時期にあって、大正天皇の存在はいかにも心もとないものと映ったに違いない。天皇の病気を「重大問題」ととらえる牧野伸顕の危惧は、君主政治の相次ぐ崩壊という対外的危機感によって増幅されていたのである。当時の政府は大正天皇のような、権威を失った「弱い」天皇ではなく、かつての明治天皇の「遺産」を正しく継承しながら、カリスマ的権威をもって国民全体を統合する「強い」天皇を必要としていた。

裕仁皇太子が摂政となる21年11月に先立ってヨーロッパから帰国する同年9月を機に、近代天皇制の大幅な刷新が図られた。その結果、大正天皇は、自らの意思に反して強制的に「押し込め」られ、天皇としての実権を完全に失うに至ったのである。』

ここに登場する牧野伸顕とは、明治政府の生みの親、大久保利通の次男であり、吉田茂は牧野の娘婿、麻生太郎は牧野のひ孫に当たる。

牧野は、外務大臣や文部大臣などを歴任した後、1921年から25年にかけて宮内大臣として大正天皇に仕えた。もともと外交官として外国の情勢に通じ、リベラルな考えの持ち主だったが、病気が重くなった大正天皇に代わって皇太子を摂政とするため主導的な役割を果たした。

牧野の父、大久保利通は、岩倉具視と組んで明治天皇を担ぎ、天皇の権威を最大限に利用して維新を実現させた。都を京都から東京へ移し、明治天皇をそれまでとはまったく違う新しい天皇に仕立てたのも、大久保だった。

そして娘婿の吉田茂は、敗戦後マッカーサーとの間で天皇制存続のための交渉を行う。戦争の責任を取って退位を申し出た昭和天皇を吉田が止めたとされる。

面白い縁である。

元気な皇太子時代

知られざる大正天皇の幼少期から皇太子時代、さらに天皇となって亡くなるまでを描いた原氏の著書は、実に興味深い。

幼少期から体が弱かった大正天皇は、学習院に入学するが病気で進級することができず、中等学科1年を終了した時点で中退を余儀なくされた。これ以降、一般の学生と机を共にする機会はなく、赤坂離宮内に設けられた御学問所で個人授業を受ける。

少数の東宮職関係者と接するだけの孤独で単調な日常が変わったのは、1898年、有栖川宮が東宮を監督する東宮輔導に就任してからだ。それまでの詰め込み教育から一転し、皇太子の健康を最優先する方針を取る。

1900年には、九条侯爵家の四女・節子(さだこ)と結婚。こうした変化は、皇太子だった大正天皇の健康や行動に大きな変化をもたらした。

ちなみに大正天皇のご成婚では、この年に公布されたばかりの皇室婚嫁令に従って、皇太子は束帯、皇太子妃は十二単衣を着用し、宮中の賢所大前で玉串を捧げた。式が終わると揃って馬車に乗り、沿道に市民が埋め尽くす中、東宮御所に帰った。皇室の伝統と私たちが思っているこのスタイルは、大正天皇のご成婚の際に初めて導入されたものだそうだ。

皇太子のご成婚は日本中から大変な祝福を受けた。有名な弘前公園の桜も、ご成婚を記念して植樹したのが始まりだという。

結婚後、皇太子の健康は急速に回復し、有栖川宮はそんな皇太子を全国に旅行させた。皇太子も宮中を離れ、日本全国を旅行することを好み、行く先々で気楽に国民に言葉をかけた。神格化されていた明治天皇とは、まったく違う親しみやすいスタイルで、沖縄を除くすべての都道府県と植民地だった韓国を回った。

病弱だったイメージの強い大正天皇が皇太子時代にこれほど精力的に活動していたとは意外だった。ある意図をもって、こうした大正天皇のプラスのイメージは消されたのかもしれない。

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