大東亜共栄圏

戦後71年目の8月がやって来た。

岩波新書の小林英夫著「日本軍政下のアジア〜「大東亜共栄圏」と軍票」を読む。著者は駒沢大学教授。この中に大東亜共栄圏というスローガンが生まれてきた時代の背景が書かれている。

「日中戦争がまさに泥沼化するなか、物資流出ルート遮断作戦の展開は、いわゆる「援蔣ルート」遮断を名目とする仏印(フランス領インドシナ。現在のベトナム、ラオス、カンボジア)進駐につながっていく。

この背景には、中国占領地からの物資獲得がうまくいかないなかで、あらたに提唱された「大東亜共栄圏」構想があった。だが、仏印進駐はアメリカの報復措置をよび、太平洋戦争に突入する契機となっていくのである。」

img_2154

この構想の名付け親は松岡洋右だった。

「1940年9月の北部仏印進駐にさきだって、日本が打ち出したスローガンが『大東亜共栄圏』にほかならなかった。

同年7月に発足した第二次近衛内閣の外務大臣、松岡洋右は就任直後の記者会見で、外交方針について、『皇道の大精神に則り、まず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立』と述べた。これが『大東亜共栄圏』と言う言葉の最初とされる。

第二次近衛内閣は、成立直後に『基本国策要綱』と『世界情勢の推移に伴う時局処理要綱』を決定、日本・ドイツ・イタリア三国の連携を強化するとともに南進する方針を明確にしたが、松岡は「基本国策要綱」にいう「大東亜の新秩序』を「大東亜共栄圏』と表現したのである。松岡はこの種の造語能力があったようで、満鉄副総裁をやめた31年1月、「満蒙はわが国の生命線』と叫んで、その年9月の満州事変の雰囲気づくりに貢献している。」

こうして生まれた「大東亜共栄圏」というアジアの民衆の繁栄を謳うスローガンは国民の南進熱をあおり、南方侵略を正当化する論理として広められていった。

「だが、かつての『東亜新秩序』の実態が傀儡政権化、植民地化であったと同様、「大東亜の新秩序』のいいかえである「大東亜共栄圏』もまた、スローガンの響きはどうあれ、その同類に過ぎなかった。」

要するに「大東亜共栄圏」とは、植民地や占領地の富と資源をすべて、日本の戦争目的のために動員するという体制にほかならなかった。しかも、日本軍の現地自活主義はさらに物資収奪を乱暴なものとした。

軍事作戦については多く語られるが、占領地での軍政について語られることは少ない。軍票と呼ばれる通貨政策や行政機構など、日本軍の侵略により中国以外のアジア諸国でも市民生活への大きな被害が出ていた。

そのことを私はほとんど知らない。多くの日本人も知らないだろう。

コメントを残す