大村益次郎

司馬遼太郎著「花神」の続きである。中巻に名前の話が出てくる。

蛤御門の変で惨敗した長州藩が滅亡の危機に直面した時、実権を握った桂小五郎の推挙により、村田蔵六が「用所役・軍政専務」に抜擢された。「国防局の局長といったふうの重職」で、この時百姓出身の蔵六は初めて「正規の藩士」になった。しかも、「馬廻役譜代に列せしめ、禄高百石」という上士である。

『 譜代というのは、先祖代々から毛利家の上士であったという武士としての正規の筋目のことである。雇士というのは蔵六一人が「藩士待遇」というだけで、先祖には関係がない。まして親兄弟にも関係がない。 「譜代」ということになると、がらりと事情がかわるのである。父の孝益も上士となり、母のお梅も上士の妻・母になる。家屋敷からつきあいにいたるまで、いっさいそのように変えてしまわねばならない。』

そして、名前の問題が浮上するのだ。

村田姓は、百姓身分にして医者であったこの家の仮の姓で、譜代にはなりにくいのだ。藩庁の役人は「いっそこの際新たにお創りくださるわけには参りませぬか。それも、なるべく山陰・山陽あたりの村のどこかの地名をお名乗りくださることが、願わしゅうあります」と言った。「日本人の姓は、その居住している村郷の地名からとった場合が多い」そうだ。

高杉晋作の高杉は現在の三次市の東郊、山県有朋の山県は安芸の北部、周布政之助の周布は島根県、乃木希典の乃木は今の松江市の中にあるらしい。

蔵六は、当時住んでいた鋳銭司村字大村からとって「大村」を姓とし、父の名前から一字を取って「益次郎」を名とした。

しかしそれでけでは終わらない。

『 武家であるためには、ひとそろえの形式が要る。たとえば、名である。 「大村益次郎」というだけでは、まずい。武家の正称はむしろ諱(いみな)である。太郎とか三郎でなく、頼朝とか義経といったほうの名である。これは平素は称せず、当人でさえ忘れていることが多い。ついでながら明治後、名前は一つだけにせよという太政官令が出て、山県有朋は狂介をやめて諱の有朋にし、大隈八太郎も重信という諱のほうにし、西郷隆盛は吉之助をやめて隆盛にした。江藤新平の場合は、諱は胤雄であったが、彼は何か思うことがあったらしく、通称の新平に方を官へ届け出た。福沢諭吉が通称の方で押し通したのとやや似た理由だったのであろう。』

蔵六は、「永敏」という名にした。

さらに、「源平藤橘」の姓もある。蔵六は「藤原氏」にした。武士としての由緒を明らかにするためのものだろうが、村田家の先祖は流浪僧だったらしく、藤原氏というは完全に思いつきにすぎない。

ついでに、藩吏からは「御先祖書きを差し出していただきます」とも言われた。

『 これが徳川時代の法制的な習慣で、大名・旗本は幕府に対して系図を差し出し、諸藩の上士は藩主に対して系図を差し出してある。これらは寛政ごろのことで、そのほとんどがわずかな資料を種に系図の専門家に創作させたつくりものであったが、ともかくも、あらたに上士身分になるにはそういうものを提出しなければならないのである。 蔵六は、このことは断った。彼の先祖は流浪の念仏坊主であったらしく、むかしいずこからか流れてきて鋳銭司村に住み着き、眷族ができてほそぼそとこんにちにいたっている。嘘を書けばいくらでも系図はできるが、他の上士の家の系図はたとえ嘘でも二百年以上経っており、嘘も長年経てば古色を帯びる。』

なるほど、家系図を大事に守っている家というのはあるようだが、その信ぴょう性は疑わしいということか。

武士になるというのは、面倒なことだったのだと実感する。

蔵六の父親は「おれは、ならんぞ」と言ったという。その気持ちはとてもよくわかる。

私もきっとその父親と同じ答えをするだろう。

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