ヤクニンと議員

司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読み進めている。物語の主題とは関係ない話だが、興味深い記述に出くわした。「ヤクニン」と「議員」についてである。

「ヤクニン」いう項は第三巻に登場する。こんな記述だ。

『「ヤクニン」という日本語は、この当時、ローニン(攘夷浪士)ということばほどに国際語になっていた。ちなみに役人というのは、徳川封建制の特殊な風土からうまれた種族で、その精神内容は西洋の官僚ともちがっている。極度に事なかれで、何事も自分の責任で決定したがらず、ばくぜんと「上司」ということばをつかい、「上司の命令であるから」といって、明快な答えを回避し、あとはヤクニン特有の魚のような無表情になる。 「上司とはいったいたれか、その上司と掛け合おう」と、外国人が問いつめてゆくと、ヤクニンは言を左右にし、やがて「上司」とは責任と姓名をもった単独人ではなく、たとえば「老中会議」といった煙のような存在で、生身の実体がないということが分かる』

この記述は、英仏米蘭4カ国の連合艦隊が下関を攻撃し、その講和交渉の経過の中で語られる。長州の重役たちは、講和交渉の代表として高杉晋作を選んだ。本来は筆頭家老が担うべき任務を犯罪者として牢に入れていた若者に押し付けたのだ。しかも臨時の筆頭家老の肩書きを与える。長州藩の筆頭家老は代々宍戸家が世襲しているため、高杉は「宍戸刑馬」と名乗ることにする。あまりに泥縄。笑うしかないが、これが史実なのだろう。

司馬さんは、こうした日本人特有の役人気質について次のように書いている。

『徳川の幕藩官僚の体質は、革命早々の明治期にはあまり遺伝せず、高等文民制度が軌道に乗った大正以後に濃厚にあらわれてきて、昭和期にはその遺伝体質が顕著になった。太平洋戦争という、日本国の存亡を賭けた大戦でさえ、いったいたれが開戦のベルをおした実質的責任者なのか、よくわからない。ペリーとプチャーチンがおどろいた驚きを、東京裁判における各国の法律家も三度目におどろかざるをえなかった。太平洋戦争のベルは、肉体をもたない煙のような「上司」もしくはその「会議」というものが押したのである。そのベルが押されたために幾百万の日本人が死んだが、しかしそれを押した実質的責任者はどこにもいない。東条英機という当時の首相は、単に「上司」というきわめて抽象的な存在に過ぎないのである』

司馬さんが指摘する「ヤクニン」体質は今の日本社会にもしっかり根付いている。それだけ平和が続いているということかもしれないが、こうした体質の下で、組織は腐り、会社がつぶれることは、テレビニュースを見るまでもなく、日常のそこかしこで目撃する光景である。

私はなるべく自分が決めるべきことは自分の責任で決めたいと思ってきた。自分で決めたことは「私が決めた」と部下にも伝えてきたつもりだ。しかし、他人からどのように見えていたか、それは自信はない。さらに言えば、自分の権限でない事柄にまで自らの意見を主張し、革命を起こすような行動はまったくしてこなかった。吉田松陰や高杉晋作とは明らかに別種の人間である。その意味では、「ヤクニン」的要素を持っていたと言われても反論できないところだ。

もうひとつ、「議員」という単語が第四巻で登場する。高杉晋作がわずか80名の農民兵を率いてクーデターを起こし、序盤戦で藩政府軍に勝利を収めたころ、萩ではにわかに「議員」と呼ばれる集団が生まれた。

『萩城下は、当然ながら動揺した。大動揺というべきであったろう。この対立激化にともない、当然こういう場合に出現すべき勢力もあらわれた。中立調停勢力であった。それも、萩の上士団のなかで出現した。萩ではそれらの連中を、「議員」と、称した。ついでながらこの時期の長州藩は、いくつかの新語を日本語に加えた。たとえば軍隊組織の単位の呼称を江戸日本語では「組」と称してきたが、長州でははじめて「隊」とよんだ。議員という呼称も、この藩人の独創であった。かれら中立勢力は、最初、城下瓦町の旅籠三笠屋に深夜ひそかに集合して結成された。その人数は三十数名であった。すぐ四十人になり、やがて緒隊が絵堂・大田で藩政府軍を破ったあとは二百人にふくれあがった。かれらはみずからを、「鎮静会議員」と、称した。中立とはいうものの、厳密にはその思想も主張も緒隊とかわらない。緒隊の代表者のようであった。緒隊の武力が、緒隊の思想同調者の数をそこまでふくれあがらせたのである』

彼らは、高杉に頼まれもしないのに藩主に対して建白書を上呈した。それはまるで高杉が書いたような内容で、建白書の写しを読んだ高杉は嫌悪感を抱いた。

『「これが人の世だ」とも晋作はおもい、戦いの勝利と言うものの不思議な作用を思った。晋作は鎮静会議員のいちいちの顔ぶれを見て、そのうちの七割が力関係の変化にともなう雷同者であり、二割が新政権が樹立された場合の猟官を目的とした連中であることを痛いほど知っていた。晋作の頭は回転した。「もし萩に新政権が樹立すれば」ということである。当然、革命軍の総大将である晋作が、藩首相ともいうべき政務首座の位置につくであろう。さらに当然なことに、政局転換に大功のあった鎮静会議員の多数が、政務役以下の養殖につくに相違ない。それをおもうと、この妙な男は身ぶるいするほどの嫌悪感をおぼえた。「椋梨藤太のほうがましだ」と、おもうのである』

そして高杉はのちの井上馨にむかって、「聞多、おれは逃げるぜ」と言った。気持ちはわかる。

それにしても、「議員」という単語はその生まれから日和見的な存在だったとは驚きである。

「ヤクニン」と「議員」。現代社会にしっかり受け継がれているこの日本人的傾向からいかに離れて生きることが出来るか、それが司馬さんの本を読む意味かもしれない。

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