ふるさと武蔵野

井の頭公園の新緑は本当に美しい。

日本の山はもともとあった広葉樹を切って、針葉樹を植えた。歴史を変えることはできないけれど、広葉樹林こそ日本の森だ。新緑と紅葉。日本の美の源泉だ。これを何で切ったかなあ。ああ、もったいない。その点、井の頭公園は圧倒的に広葉樹。太陽に照らされた新緑は、心を躍らせてくれる美しさだ。

 

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武蔵野図書館で「保存版・ふるさと武蔵野」という大判の写真集を借りた。吉祥寺の歴史を知りたいと思ったからだ。
写真集としてはさほど素晴らしい出来とは思わないが、町の成り立ちが少し分かり入門編としては役に立った。昔の白黒写真もいろいろ納められていて、時代とともに移り変わる吉祥寺の様子がよく分かる。
本に書かれていた吉祥寺の歴史はこんな感じだ。

関東ローム層に覆われた武蔵野台地は水源が少なく荒漠とした原野が広がる土地だった。武蔵野最大の湧水と言われる井の頭池畔の御殿山からは縄文時代中期の集落跡のほか先土器時代(1万〜2万年前)の石器も発見された。古代から湧水のほとりで人々が暮らしていたようだ。しかし、江戸時代になっても現在の杉並、三鷹、武蔵野付近に村はなく、広大な草原が広がっていた。江戸幕府御用の萱(かや)を刈る用地や鷹場に指定された。
その後、火事と地震と戦争をきっかけにこの地に人が移り住むようになる。
1650年江戸西久保城山町(港区)消失 1657年明暦の大火(振り袖火事) 1658年本郷元町の吉祥寺・門前町消失
幕府は新たな都市計画のもと大規模な再開発を進め、寺や武家屋敷の配置転換などを行った。その際多くの町民や農民が立ち退きを余儀なくされた。吉祥寺の門前町の一部や西久保城山町の人々が武蔵野に移住。1664年の検地で吉祥寺村と西窪村が正式な独立村となった。

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1653年玉川上水完成・新田開発が活発に 1696年千川上水完成 1871年吉祥寺村・西窪村を東京府編入 1872年神奈川県に編入 1893年東京府に編入
1889年には甲武鉄道の新宿・立川間が開通し境停車場が開業。1899年に吉祥寺停車場、1930年には三鷹駅が開業した。そして1913年、帝室御料地が東京市に下賜され、1917年には日本初の郊外型公園として井の頭恩賜公園が開園した。さらに1934年には井の頭線が全線開業した。
1923年の関東大震災で武蔵野市の人口は急増、5年間で倍増した。このエリアは地震の被害をあまり受けなかったようだ。

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そして戦争の時代へ。中島飛行機が1938年陸軍の発動機を作る東工場を、1941年には海軍の発動機を作る西工場を開設。太平洋戦争が始まると全国から工員が徴用され武蔵野町の人口も3万人から5万人に増加した。しかし、1944年11月24日、米軍の爆撃が始まる。以降9回の爆撃により工場内の220名のほか付近住民にも多数の死傷者を出した。

戦後になると、中島飛行機の跡地は様々な変遷をたどる。1946年には慶応義塾大学医学部が一時使っていたらしい。東工場跡には5万人収容可能な東日本一の野球場「東京グリーンパークスタジアム」が建設された。国鉄スワローズの本拠地として12試合が行われたが、客足が伸びず運営会社が倒産してしまったという。球場は解体され1957年に緑町団地が完成した。

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西工場は改修され1953年立川基地米軍将校家族用宿舎が完成。最大750世帯が暮らした。米軍宿舎建設計画が明らかになった時から地元では反対運動が盛り上がった。1967年には返還運動が本格化し、1970年「米軍施設の返還を求める市民の会」が結成され、市、市議会、市民あげての運動へと発展する。そして1976年東京都が土地を買収、翌年米軍宿舎が解体された。
1964年 「吉祥寺駅周辺都市計画協議会」設置(武蔵野市・市議会・地元)         1969年 荻窪・三鷹駅間複々線化完成 踏切問題解消                   1971年 「武蔵野市長期計画」 市民が参加し長期計画を作り上げる方式を採用
こうした市民参加の自治体運営は「武蔵野方式」と呼ばれる。自治会や町内会がない武蔵野市では市民生活の基本単位としてコミュニティ構想が打ち出された。市民による自主参加・自主企画・自主運営の原則に立った自立的・自発的なコミュニティ作りを目指しているという。

というようなことがこの本で分かった。「住みたい街」吉祥寺の歴史は知らない事ばかりだ。もっと細かい事を調べてみようと思う。特に江戸時代の再開発計画や移住した人たちの苦難、中島飛行機と跡地の数奇な運命はもっと知りたいテーマだ。

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