なぜ戦争へ①

NHKスペシャル取材班編著「日本人はなぜ戦争へと向かったのか〜外交・陸軍編」を読んだ。

半分は研究者へのインタビューで期待したほどの中身ではなかったが、その中で興味を引いたのが永田鉄山という陸軍将校の存在だ。

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山県有朋を頂点として元老が支配する古い組織に疑問を抱き、陸軍の改革を目指した永田。「永田の前に永田なし、永田の後に永田なし」と言われた陸軍きっての逸材とされる。

永田は軍事研究のため、6年間ヨーロッパに駐在。そこで第一次世界大戦を目の当たりにする。

1921年10月27日、独バーデンバーデンの「ステファニー・ホテル」に陸軍士官学校第16期卒業の同期生3人が集まった。永田と小畑敏四郎、岡村寧次だ。ここで3人は陸軍装備の近代化、守旧派上層部の一掃、国民と乖離している陸軍の改革を論じ、「古い陸軍を刷新する」ことに尽力することを確認したとみられる。

第一次大戦は、国家同士がすべての資源を投じてぶつかり合う「総力戦」に変化していた。視察を終えた永田は「国家総動員」の必要性を報告する。この中から印象的な一文を抜粋。

「カントの言葉を借りて申し上げるならば、永久平和というものは永遠に来ないであろうが、しかしながら人類はそれがあたかも来るものであるかのごとく行動せねばならない。平和を理想とするものが、それに憧憬し、それを現実にするごとく努力するのは、まさにその通りでありましょうが、その達成は人が神にならぬ間は、長時間的の問題であろうことを覚悟しておらねばならぬと思うのです。」

永田は「二葉会」という16期生を中心とした勉強会を立ち上げ、それが1929年「一夕会」へと発展する。40人のエリート将校が参加した。その中には板垣征四郎、東条英機、山下奉文、石原莞爾らがいた。彼らは人事を使って陸軍内で影響力を強めていく。

しかし、重要なポストを押さえると、メンバー間に意見の相違が目立つようになる。

石原、板垣による満州事変は永田の計画を狂わせた。その後深刻になる統制派と皇道派の対立。永田は統制派の中心人物として皇道派の小畑と対立し、陸軍の刷新を誓ったかつての同士は完全にたもとをわかった。

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そして1935年8月12日、永田は陸軍省内で皇道派の中佐・相沢三郎に斬殺される。

小畑も失脚し、全体をとりまとめるリーダーがいなくなる。そして陸軍は百家争鳴の様相を呈し、迷走していったというのがこの本の要旨だ。

永田の跡を継いで統制派を率いたのが東条英機。永田が生きていれば太平洋戦争は避けられたかもしれないと考える人もいるようだ。

リーダーの不在は、往々にして誰も予期しない方向にことを進める。身近な組織を見ても納得できる話である。

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