この国のかたち②

司馬遼太郎著「この国のかたち」第一巻の続き。「“雑貨屋”の帝国主義」という不思議な項から、戦前の参謀本部や統帥権の話を展開する。実に興味深い。

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日本史をざっと読み返しながらおぼろげに思っていたこと、それは日本人って国土を焼き尽くすような戦争をしていない民族だということを再認識したことだった。絶え間ない権力闘争に明け暮れているが、長期にわたって激しい戦争が続くという歴史は全く存在しない。

天下分け目としてイメージしていた関ヶ原の合戦も、戦いそのものは1日で終わっている。負けた軍勢が退却しながら持久戦に持ち込み、さらにはゲリラ戦で抵抗を続けるということがない。

元寇も大規模な陸上戦が始まる前に船が沈んでしまうし、明治維新にしても徳川幕府の本隊は戦わず江戸無血開城となった。緒戦の勝敗が決すると、皆が勝ち馬に乗り、一気に勝負がつく。敗軍の将が腹を切って一件落着、そんな歴史だった。

そういう意味で言えば、先の大戦での日本人だけがとても異質に感じていた。

まさに、そうした私の漠然とした思いを見透かしたように、司馬さんの本はドンピシャで答えてくれたのだ。

「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。 ーーーーー あんな時代は日本ではない。 と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである」

なぜ違ったのか?

「ごく最近になってその理が、異常膨張した昭和期の統帥権の“法解釈”ではないかと思うようになった。 明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たちはそれを自分たちが“所有”していると信じていた」「参謀という、得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略をたくらんでは国家に追認させてきたのが、昭和前期国家の大きな特徴だったといっていい。 昭和前期の日本というのは、統一的な意思決定能力をもった国家であったとはおもわれない」

そして韓国併合について述べる。

「日本は、日露戦争終了後、五年して、韓国を合併した。数千年の文化と強烈な民族的自負をもつその国の独立をうばうことで、子々孫々までの恨みを買うにいたったが、当時の日本の指導者はそのことについての想像力をもっていたか」

韓国併合の背景にはロシアへの警戒があった。「ロシアはわずかな差で敗れたとはいえ、巨大な余力を残していた。かならず報復のための第二次日露戦争を仕掛けてくる、と日本はおもっていた」この場合の日本は、主に参謀本部だ。参謀本部がロシアを警戒し、韓国併合を主導した。

「参謀本部にもその成長歴があって、当初は陸軍の作戦に関する機関として、法体制のなかで謙虚に活動した。 日露戦争がおわり、明治41年(1908年)、関係条例が大きく改正され、内閣どころか陸軍大臣からも独立する機関になった。やがて参謀本部は“統帥権”という超憲法的な思想をもつにいたる。 将来の対露戦の必要から、韓国から国家であることを奪ったとすれば、そういう思想の卸し元は参謀本部であったとしか言いようがない」

そして、表題となった「雑貨屋の帝国主義」とはこういう意味だ。

「外国からみれば形としては帝国主義のひな形に入るが、内実は帝国主義ですらなかったように思われるのである」

帝国主義の定義とは「過剰になった商品と、カネのはけ口を他に得るべくーーつまり企業の私的動機からーー公的な政府や軍隊を使う、というやり方」だそうだ。しかしである。

「当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは、タオルとか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか。 要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない」

調子狂いの日本人として、司馬さんは、日露戦争後のポーツマス講和条約に反対した一般大衆のことを書いている。

「ここに、大群衆が登場する。 江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。 調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園で開かれた全国大会は、参集する者三万といわれた。彼らは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。 私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量にーーたとえば参謀本部にーー蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない」

朝鮮に続き「満州国」を作り、華北に進出する。そして泥沼の日中戦争に。

「満州が儲かるようになったというのは、密輸の合法化ともいうべきからくりのためだ。その商品たるや、なお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。このちゃちな“帝国主義”のために国家そのものがほろぶことになる。一人のヒトラーも出ずに、大勢でこんなばかな四十年を持った国があるだろうか」

やはり、この時代は日本史の上で異質だ。日本が外国に広大な占領地を持ったことはかつてなかった。さらにこれだけの死者を出しながら、敗色が濃厚になりながら戦争を継続したことも過去になかった。

私は、集団行動が得意な日本人を見ていて、日本人にはもともと全体主義的な傾向があったのではないかとずっと思っていた。しかし、実は日本人はそれぞれの利害で勝ち馬に乗り、早期に事態を収拾するのが得意な民族だったように思えてきた。「変わり身の早さ」も日本人の昔からの特性だったように見える。

そうした意味で、やはり戦前の一時期の全体主義は異質だと思う。

ただ、先の大戦ですら、本土決戦になる前に戦争をやめた。空襲で焼け野原にはなったが、本土では陸上戦は行なわれなかった。爆弾から逃げ惑うのは確かに大変だが、目の前で人が人を殺すのをみるのとはやはり生々しさが違う。日本史で異質だったこの時代ですら、最後は日本人的な勝ち馬に乗る本性が出てきたのかもしれない。

その中で、沖縄は見捨てられた。その恨みが今日まで尾を引いている。中国人や韓国人の恨みも、今もって解決されるめどはたっていない。一部の人の”愛国心”がもたらした結果は重い。

 

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