大正天皇の多摩陵
表参道をまっすぐ進むと大正天皇のお墓「多摩陵」に着く。
大正天皇は、1926年12月25日に葉山御用邸で崩御した。47歳だった。
一段上がった所に鳥居。
さらに石段を上がった先に、上円下方墳がある。
四角い台の上に丸いドームが乗った形の石造りのお墓。上部2段、下部3段の上円下方墳という形式だ。
明治天皇以来、近代の天皇皇后の墓はこの上円下方という形式で作られるようになった。
古代の古墳としては6例しか見つかっていない珍しい形式だという。なぜ明治以降、天皇皇后のお墓が上円下方墳となったのだろう?
ウィキペディアの解説では、こう書かれている。
『 明治・大正・昭和の天皇陵の型式を上円下方墳としたのは、天智陵(御廟野古墳)・舒明陵(段ノ塚古墳)を上円下方墳とみて、それに習ったものである。ただし近年の調査結果により、それらの古代天皇陵は実際には八角墳(上八角下方墳)であったことが明らかになっている。』
要するに、天智天皇の山科陵を真似ようとして、間違ったということのようだ。明治政府は、古代の様式を復活させようとして、いろいろミスも犯している。
考古学の世界も日進月歩で、後から新たな事実がわかってきたと理解するのがいいのかもしれない。
多摩陵の東隣には、大正天皇の妃・貞明皇后が眠る「多摩東陵」がある。
大正天皇と比べると、石段の数が少ないことがわかる。
その分、陵墓の土台の部分や菊の御紋章が施された青銅の門がよく見える。
大正天皇の母・柳原愛子は、明治天皇に使える女官だった。正妻である皇后には子供がおらず、女官が産んだ子供が天皇となったのだ。
皇后以外に5人の側室がいたとされ、息子5人、娘10人をもうけた明治天皇と違い、大正天皇は一夫一婦制を守った。
ウィキペディアにはこう書かれている。
『 大正天皇との夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また皇子を4人儲け、一夫一妻制の確立に寄与し、宮中での地位は絶大なものがあった。』
美智子さまに通じる印象を受ける貞明皇后は、1951年5月17日に66歳で亡くなった。
昭和も文字が輝かしく思えます。
高尾山、しばらく行ってませんけど、なかなかおしゃれな雰囲気ですね。
(=^・^=)