秋バテと自己責任

このところ、なんだかだるい。

どうもやる気が起きず、ブログの更新頻度も下がっている。9月に行ったホーチミンの記事もまだ一つ書こうと思っているのだが、なかなか書き始めようという意欲が湧いてこないのだ。

「秋バテ」という言葉を最近時々耳にする。

ウィキペディアによれば、秋バテとは「夏から秋にかけての気温の変化や暖かい日中から夜にかけての温度の変化などの寒暖の差の繰り返しで、自律神経系の乱れに起因して現れる様々な症状」だそうだ。主な症状としては、全身の倦怠感と共に「思考力の低下」というのもあるらしい。私の症状は、まさにこれだ。

とは言え、最近「〇〇病」とか「◯バテ」とか言い過ぎじゃないのか。一年中、体調の不調を説明する理由を探している。これは日本社会が老いてしまった一つの証だ。テレビでは健康に関する番組ばかりが氾濫する。高齢者が多くなってしまったから仕方がないのかもしれないが、若者たちまでそれに歩調を合わせる必要はない。もっと他に考えることがあるだろう。

この現象は一種の社会的な甘えであり、「私は今、◯バテだから仕方がない」と自分を甘やかす根拠となってしまう。四季のある国に住んでいるのだから、気候の変化から逃れることはできない。日本人は過去からずっとそうやって自然に自分を合わせながら生きてきたのだ。

私たち現代人も、もっと強く生きなければならない。世界の様々な事象に関心を抱き、私たちの住む世の中が少しでも良くなるようプラス思考の努力を続けるべきだと、私は思う。

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そんな中で、安田純平さんにまつわる「自己責任論」の議論には辟易とする。またか、という感じだ。

個人的には、紛争地に赴きそこで起きている事象を自らの目で見て伝えるジャーナリストの存在は絶対に必要だと考えている。それは政府が考える国際的なパワーゲームからは離れ、歴史の目撃者として客観的な情報を伝え残すことが人類の利益になると信じるからだ。

ネット社会になり、紛争地から直接映像が送られる時代になっても、それをただまとめただけの情報では伝えきれないことがある。日本人のジャーナリストが現地に入り、日本人の感性で何を見て何を感じたかを、日本語で、自分の言葉で伝えることの意味はいささかも失われてはいない。紛争地から届くYouTubeの映像を丹念に読み込んで、発信者の意図を確認し、信頼できる情報を組み立てる為にも、それを扱う人間は自ら現地に足を運び、現地の空気を肌で感じることが望ましい。そうすれば、巧みに仕込まれた罠にも気づくことができるかもしれない。

紛争地を取材した経験を持つ私は、今でも「現場を踏むことの重要性」を信じている。

しかしネット社会に生まれた新しい世代には別の考え方があることも理解できる。SNSを駆使し世界中の情報を瞬時に集める新時代のジャーナリズムも存在するのだろう。

だから、安田さんを批判する人々の意見に耳を閉ざすつもりはない。しかし、その批判の大半は感情的で、暴力的な印象を受ける。私にとって、ハッとさせられるような新たな論理にはまだ触れていない。そして何より、国権的であり、体制礼賛的なのが気になる。

安田さんは、私と同じ、20世紀型のジャーナリストである。

危険を冒してでも、現地を踏み、自分が目にしたことを正確に伝えたい。それによって、苦しんでいる人々に寄り添い、戦争の惨禍を少しでも防ぎたい。そうした報道に、社会的な価値があると考えている。

そうした20世紀型ジャーナリズムの一つの頂点が、ベトナム戦争だった。私はまだメディア業界に足を踏み入れていなかったが、その時代に活躍したジャーナリストのやり方が私の世代には模範となった。ジャーナリズムが世論を動かし、国を動かし、誤った戦争を終わらせた。そんな神話が残っている時代に私は働いた。

しかし今では、そうしたジャーナリズムは評価されなくなった。特に日本はますます内向きとなり、安田さんたちが取材した成果がメディアに乗る機会も少なくなった。ベトナム戦争の時代は、世論がそれを求めた。だからメディアは競って特派員を派遣し、野心を持った若者たちが世界中から自ら戦地取材に向かったのだ。彼らが撮影した写真は、メディアが買い取り、遠く離れた国々で雑誌の表紙を飾った。そこにはニーズがあったのだ。

今は、安田さんたちの仕事にニーズがない。雑誌が売れるわけでもなければ、テレビの視聴率が上がるわけでもない。むしろ、逆だ。

「なんでそんな遠い話をやってるの?」と、批判されるのがオチだ。

CNNやBBCなどの海外メディアは、日本に比べれば紛争地の取材を続けているが、それでも10年前、20年前に比べるとその質と量は確実に落ちたと思う。やはりニーズがなくなっているのだ。

個人的見解だが、シリア紛争は世界中のメディアが「見捨てた」歴史的な戦争だったのではないかと考えている。

大きな原因は、イスラム国の存在だ。外国人ジャーナリストを標的にして拘束しネットで殺害シーンを公開するやり方は、紛争地取材に慣れたジャーナリストたちをもシリアから遠ざけた。大手メディアはもちろん、フリージャーナリストもほとんどイスラム国には近づけなかった。こんな戦争は、私が記憶する限りなかったと思う。

おそらく、この「イスラム国モデル」は今後、別の場所の紛争当事者たちにも真似されるだろう。ジャーナリストたちを締め出せば、不都合な事実が世界に伝わるリスクを抑制することが可能だ。

自己責任論などで時間を浪費するのではなく、紛争地のブラックボックス化と国際世論の無関心化をどのように防ぐかを真剣に考える時期に来ているのではないかと、私は危惧している。

考えるだけで、ますますだるくなってくる。

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