<吉祥寺残日録>当選した都立多磨霊園の「樹林型合葬埋蔵施設」を見に行く #210908

私たち夫婦が死後に眠る墓がほぼ決まった。

先日「当選メール」が届いた東京都立多磨霊園の申込書類が我が家に届いたのだ。

正式に申し込みをする前に、「一度場所を確認したい」と私が言い、妻も一緒に見に行くことになった。

吉祥寺駅から中央線で武蔵境駅まで2駅、そこで西武多摩川線に乗り換える。

三鷹の家に住んでいた頃、20年以上武蔵境駅を利用してきたのに、多摩川線にはほとんど乗ったことがない。

武蔵境と是政を結ぶ短い路線はもともと多摩川の砂利を運搬するために作られたものだという。

2つ目の「多磨駅」で降りる。

東京外国語大学などの最寄り駅として東口は駅前が整備されているが、多磨霊園がある西口はまだ工事の途上にあり、昔ながらの住宅街が広がっていた。

駅前には「墓石陳列所」と書かれた石材店があった。

駅の西口から多磨霊園までの距離は歩いて10分足らず、途中このような石材店が軒を連ねている。

昔ながらの土間で営業しているこちらの墓参休憩茶屋では、墓参りのための花が売られている。

多磨霊園ができた1923年以来、もう100年近く墓参りの客を相手に商売をしてきたのだろう。

別のお店では、水桶にたくさんの花を挿して1セット1800円という値段をつけていた。

ここで一式お花を求めれば、帰りに桶だけ返却すれば確かに簡単である。

そうして霊園周辺の珍しい街並みを楽しみながらゆっくり歩いて8分、多磨霊園の正門に到着した。

日本初の公園墓地として作られた多磨霊園は、関東大震災直前の1923年に開園。

広さは都立霊園としては最大の128haで、東京ドーム27個分という広大な敷地を持つ。

開園当初は「多磨墓地」と呼ばれていたため今でもその名で呼ばれることが多いが、正式には戦前の1935年に「多磨霊園」に改められている。

歴史を感じさせる石造りのゲートには「東京都多磨霊園」と書かれたプレートが掲げられていた。

そもそも私たち夫婦が多磨霊園の申し込みをしたのは、作家の与謝野晶子・鉄幹夫妻の墓を探しに私が一人で訪れたのがきっかけだった。

広大な霊園内のどこに彼らのお墓があるのかを聞くために管理事務所を訪れ、偶然今年度の募集が始まることを知ったのだ。

おまけに、今年初めて多磨霊園に「樹林型合葬埋蔵施設」と呼ばれる合同墓が作られ、これならば生前の申し込みが可能だというのだ。

私は帰ってすぐに妻にそのことを告げた。

予想通り妻はものすごい勢いで話に食いついてきて、実際の場所を場所を見ることもなくネットから生前申し込みの手続きを行ったという次第である。

正門を入ってすぐのところにある管理事務所で、改めて樹林型合葬埋蔵施設の場所を聞く。

窓口の女性が霊園の地図の上に赤ペンで印をつけてくれた。

どうやら事務所からさほど遠くはなさそうである。

正門からまっすぐ北へ伸びる広い通路を進む。

「名誉霊域通り」と呼ばれる中央分離帯を有する広い大通りで、両側には大きく育った樹木が並び、車両の進入は許されない。

ほとんど人が通らない広々とした通りをのんびり歩いていると、欧米の墓地に似た気持ちの良さを感じた。

少し進むと、前方に何やら塔のようなものが見えてきた。

これは「噴水塔」と呼ばれる多磨霊園のシンボル的な建造物で、高さは15メートルある。

戦前の1930年に建てられたこのモニュメントは八角形をしていて、「八紘一宇」をイメージしているとも解釈されるが、満州事変前のこの時期には「八紘」に侵略的意味はなかったとも指摘される。

真実はよくわからないが、「名誉霊域」とされるこのエリアのシンボルとして建てられたこの塔には、何らかの意味が込められたのは間違いないだろう。

おいおい研究してみたいテーマである。

この噴水塔の手前に、すごいお墓を見つけた。

「元帥海軍大将 山本五十六墓」。

太平洋戦争の英雄、山本五十六のお墓がここにあったのだ。

さらに、その隣を見ると・・・

「元帥海軍大将侯爵東郷平八郎墓」。

日露戦争の英雄、東郷平八郎の墓が並んでいたのだ。

東郷平八郎が死去したのは1934年、多磨墓地が開園して10年ほど後だったが、その頃は都心から遠いこの霊園はまったく人気がなく、広大な敷地が空いていたためだという。

多磨墓地の著名人を研究している小村大樹さんは、東郷平八郎のお墓が多磨墓地に作られた経緯を次のように書いている。

 まず、名誉霊域一番手である東郷平八郎について書く必要がある。
 昭和9年5月30日朝、東郷平八郎が麹町の自宅で死去した。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅し、名が全世界に鳴り響いたことは有名である。
 日露戦争に勝利を収めた日本は、その後、第一次世界大戦に参戦し、国威を発揚するとともに、次第に軍事大国への道を歩いていった。 続いて昭和6年9月18日、日支は満州において戦火を交え(満州事変)、やがて戦火は満州から上海へ飛火し(第一次上海事変)、日本の中国侵略は着々と進み、日本全土をあげて軍事色一色に染まりつつあった。 以上のような時代背景のもとで、東郷の名は軍神とあがめられ、大東郷の名は実に日本のシンボル的存在であった。

 この東郷元帥の死去の報は、全世界に報道され、その葬儀は国葬をもって営まれた。 6月4日、日比谷公園で行われた国葬には、英・米・仏・支・伊の五カ国は軍艦を派遣し、その海兵が儀伏兵として葬儀に加わった。
 当日の人出は、東郷邸から日比谷まで59万7千人。国葬場付近70万人。
国葬場から多磨墓地(当時は多摩墓地と言った改称は昭和10年)まで56万7千7百人であり、国葬場では10万人は霊前の参拝ができたが、60万人が参拝できなかったと、警視庁は発表したほどの大変な騒ぎであった。
 国葬当日のもようは、各新聞とも全紙面のほとんどを使って報道した。 葬儀を終え日比谷の国葬場を発した霊柩車は、車を連ねて夕刻、多磨墓地に到着、大角海軍大将以下将兵約100名が参列するなかで、れんそう斂葬の儀(埋葬式)を行って、名誉霊域に永遠の眠りについた。
 なお、50日祭(神道なので50日、仏教は49日)まで、霊前の燈明をたやさないための墓守りには、多数の希望者があったが、日本海海戦当時「三笠」で元帥と生死を共にした勇士のなかから、12名を選んで最初の一週間だけ交替で勤めたと、当時の新聞は報じている。 このように、多数の紙面で東郷国葬のもようを取り上げられたことにより、多磨墓地の名も一挙に世間に広まることになったのである。 それまで、市当局(当時は東京市)の市民に対する多磨墓地の売込みも、たいして効果をあげることができず、全く人気がなかった。 その時、多磨墓地に「われらの東郷さん」が埋葬されたとなると、無名の多磨墓地の株は一挙に急上昇した。それ以降、多磨墓地使用は増加の方向に向かったことは言うまでもない。

 では、東郷平八郎がなぜ多磨墓地に埋葬されたのか。
 実はすでに東郷家においては、実家の青山墓地に埋葬することが決定していた。 ところが、この墓地は約6坪(約20平方メートル)で狭すぎることを聞いた東京市は、5月31日、当時の牛塚市長自ら、国家的功労者の埋葬を予定していた名誉霊域を提供したいと海軍省に申し入れた。 東郷家では、同省と相談のうえこの申し出を受けることになり、市でも6月1日参事会で、名誉霊域の使用を正式に決定した。

引用:歴史が眠る多磨霊園

大英雄だった東郷平八郎のお墓ができたことで多磨墓地の知名度は飛躍的に上がり、1963年までに広大な霊園のすべての区画が完売した。

東郷の墓が設けられた「名誉霊域」は、国家的功労者のための聖域とされ、1943年に山本五十六、1944年には元帥海軍大将の古賀峯一が埋葬された。

3人の共通項は連合艦隊司令長官を務めたことである。

しかしその後、「名誉霊域」にお墓を建てた人は一人もおらず、多磨霊園の中でも最も樹々に囲まれた1000坪の聖域にはこの3人以外のお墓はないのだ。

そんな「名誉霊域」を通りすぎまっすぐ進むと・・・

私たちが申し込んだ「樹林型合葬埋蔵施設」が目の前に現れた。

工事用のカラーコーンが置かれ、まだ完成していないことがわかる。

「名誉霊域通り」に面する一等地、その周囲には大きな区画のお墓が並ぶ。

おそらくここにお墓を持っていた家が利用を中止し、その1区画分を合同墓に変更したものと思われる。

区画の端には「樹林型合葬埋蔵施設 一号基」と書かれたプレートが建てられていた。

合同墓に誰が埋葬されているのかを示すネームプレートなどはない。

しかし私も妻も、死んだ後に自分の名前が刻まれることを特に望んでいないので、私たち夫婦にとっては自分たちらしい理想的なお墓だと感じられた。

合同墓は方墳のような形をしていて、シンボルツリーとしてヒメシャラの木が植えられていた。

三鷹の家に引っ越した時、小さな庭のシンボルツリーとして私が植えたのもシャラの木だったので、ちょっと不思議な縁を感じる。

お墓の手前には参拝する人のための献花台のようなものが作られていた。

私たちが死んだ後、この方墳のような場所に遺骨が収められる形になる。

使用料は遺骨1体につき9万1000円で、その後の年間使用料は一切かからない。

私たちの場合、遺骨を粉状にして納めることにしているので、その場合には1体につきわずか3万円である。

ケチな妻も大喜びの最低料金のお墓。

これ以上安いお墓が東京に存在するだろうか?

自分たちが眠ることになるお墓を確認し満足した私たちは再び噴水塔の脇を通って駅へと向かった。

偶然見つけたお墓は自然豊かで低予算。

これ以上、私たちの希望にマッチしたお墓はどこを探しても見つからないだろう。

もういつ死んでも息子たちの手を煩わすことはない。

しかも息子たちが育った三鷹の家から5キロも離れておらず、もし墓参りをしたければ岡山の墓と比べてアクセスは極めて容易である。

もしも誰も墓に参ってくれなかったとしても、荒れ果てて草が伸び放題になる心配もないのだ。

多磨霊園を後にして、正門からまっすぐ伸びる通りを歩いてみる。

街路樹が大きく育ったなかなか立派な趣きである。

法事などで利用するのであろう歴史のありそうなお店もある。

このエリアはみんな、多磨霊園とともに100年間生きてきたのだ。

それにしても・・・と思う。

自分たちの墓が決まったというのに、なぜか心がうきうきするのはなぜなのだろう?

人間は「死」を意識すると恐怖を感じるものだと思っていた。

しかし、そうでもないらしい。

「終活」という言葉が広く使われるようになったが、確かに自分の最期をちゃんと準備すると、不思議と心が落ち着くものである。

多磨駅に戻ると、「日華斎場」という葬儀場の案内板が目に止まった。

多磨霊園のすぐ隣にある火葬場であり、ここで葬儀も行えるらしい。

「葬式もここでいいんじゃない」

看板を見ながら妻に声をかけた。

最近の火葬場はずいぶんきれいになっていて、大理石ばりの豪華な部屋で最後のお別れをすることもできるようだ。

ここで葬式をすれば、わざわざ焼き場に移動する必要もない。

そしてお墓もすぐ近くにあって、みんながその場所を確認して帰ることもできる。

自分が死んだ後のイメージがリアルに広がってきて、それは恐怖ではなく単なる段取りだった。

吉祥寺に戻ると、その足で市役所の窓口に向かった。

住民票と印鑑証明をもらうためだ。

市民カードを使って初めて証明書自動交付機を使ってみた。

昨日届いたばかりの多磨霊園の申請用紙に記入し、住民票と印鑑証明を添えて早速郵送する。

後は埋葬料金を支払うための書類が送られてくるのを待つだけだ。

歴史上の有名人たちが眠る多磨霊園の中心部に格安で入る権利を得た。

この樹林型埋葬施設は一般にはほとんど知られていないだろうが、いずれ大人気になる予感がする。

私たちはその第一号となったのだ。

これでいつ死んでも子供たちに迷惑をかけることはなくなった。

思い切り、残りの人生を楽しむだけだ!

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