<吉祥寺残日録>岡山帰省の初日、桜と桃と包括支援センター #210402

ほぼ5ヶ月ぶりの岡山への帰省。

朝7時25分発の全日空機に乗ると、眼下に富士山が見えた。

空港でレンタカーを借りる。

この日はとても混雑していて、かなり待たされたうえに、あてがわれた車はいつものヴィッツではなく、タンクという背の高い車だった。

「この車で山に上がれるだろうか?」

岡山のマンションに暮らす実母をピックアップして、伯母の家を訪ねる。

今回の主目的のひとつは、母と一緒に墓参りをすること。

岡山市内のはずれにある伯母の家に行くと、部落のところどころに桜の花が咲いていた。

「この村に、桜なんかあったっけ?」

そう思った。

子供の頃、この家で暮らした時期には桜なんかに興味はなかったに違いない。

ひょっとすると、その後で誰かが桜を植えたのかもしれないが、上京してからは4月のこの季節に帰省することは一度もなかった。

4月といえば年度始め、色々な行事があって岡山に来ることなど考えもしなかった。

墓参りを済ませた後、畑を一回りした。

春の雑草に覆われた畑では桃の花が満開だった。

伯母が植えた桃の木は、誰も世話をしなくても勝手に花を咲かせていたのだ。

去年は実をつけなかった記憶があるので、このまま放置しておいて桃が食べられるほど世の中甘くはないのだろう。

でも、この桃の木が今後どのように変化していくのかは、今年の研究テーマにできそうだ。

去年11月に私が大根の種を蒔いた小さな畑は、期待を裏切り、何の作物ももたらしてはくれなかった。

たくさん種を蒔いたのだが、残っていたのは大根の花が数本。

あとは小さな雑草がちょろちょろ生えているだけだった。

やっぱり、月一農業で適当に種を蒔いただけでは収穫は得られないということなのだろう。

「農業を舐めるな」

小さな大根は私にそう訴えているように感じる。

もし大根が大きく育っていたら東京に持ち帰ろうと今回はキャリーバッグをころがして帰省したのだが、その必要はまったくなかった。

ちょっと残念だが、もともと収穫を当てにしていたわけでもないのでそれはそれでいい。

それにしても、新緑に覆われた裏山が綺麗だ。

このあたりでは針葉樹の植林があまりなされていないので、広葉樹林帯が広がっている。

畑から戻り、伯母と母を相手に、家系図の聞き取りを始める。

伯母の強烈な衰えを感じたのはこの時だった。

私の伯母は若い時に夫に先立たれ、長年一人で生きてきた。

つい2年ほど前までは80代とは思えないほど元気で、一人で誰の助けも借りずにブドウの栽培を行っていた。

ところが、このところ目に見えて体力が衰え、ブドウの出荷をやめてからは脳の衰えも出始めていた。

それでも、コロナで会えなかった5ヶ月の間に伯母の認知機能障害は確実に進んだ。

自分の両親の名前がスラスラ出てこない。

祖父母の名前を聞いても答えられなかった。

服装や身だしなみ、台所周りの様子も以前とは違った。

「ちゃんと生活できているのだろうか?」

私も妻も、伯母の話を聞きながら正直かなりヤバイと感じた。

午後3時、この地域の「包括支援センター」の担当者が伯母の家に来た。

妻が東京から連絡し、私たちの帰省に合わせて伯母の様子を見にきてくれたのだ。

伯母は特段抵抗することもなく、その担当者と話をした。

しかし、聞かれたことにうまく答えられない。

担当者の人は介護申請の書類を説明しながら、かかりつけ医の意見書をつけて申請したほうがいいと勧めてくれるが、伯母は「ええです、ええです」と言って断わった。

あまりしつこく勧めると、担当者の第一印象が悪くなると判断して、この日は顔合わせに留めて話し合いを切り上げた。

担当者を見送りながら少し立ち話をしたが、「認定は降りるだろう」と担当者はいい、早めに医者に見せることを勧めて帰っていった。

これから時々、伯母のことを様子を見にきてくれるというので少し安心した。

伯母の家から母のマンションに帰る途中、妻の実家にも立寄った。

こちらは90前後の妻の両親が2人で暮らしている。

伯母に比べると元気で会話もちゃんとできるが、食事の時以外は、それぞれの部屋でゴロゴロして過ごすような日常だという。

妻の両親はすでに介護認定も受け、通いのヘルパーさんたちに支えられながらの生活なので、介護を拒否する伯母と比べると安心感はある。

一番若い私の母ももう88歳になった。

幸い母はまだ元気で頭もしっかりしているが、耳が聞こえにくくなってきたようだ。

テレビの音量がバカに大きいのが気になる。

いずれにせよ、4人の老人は確実に歳をとってきた。

我が家の本格的な介護の季節が目の前に迫っている。

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