<吉祥寺残日録>何でもイヤイヤの伯母が入院した一部始終と翌日の大掃除について #210818

伯母は、近所でも評判の「自分がしっかりした人」だった。

人の世話はいらないことまでするくせに、人の世話には絶対にならないという強い信念があった。

信念というよりも、意地または頑固、いやいや偏狭と言った方が当たっているかもしれない。

人が好意で何か手助けしようとすると、必ずキッパリとどちらかといえば失礼なほどのすげなくその申し出を拒否するのだ。

認知症が進み、自分の食事も満足に作れなくなると、近所の人たちも見かねて家で作った料理などを差し入れしようとしてくれるのだが、伯母は常に「そんなもんはいらん。自分でできる」と言って断るのだ。

私たちが私たちが何か伯母が好きそうな食べ物を買って行っても、「あんたら食べられ。わたしゃ要らん、食べるもんはぎょうさん(たくさんの意)あるから」と言ってなかなか食べようとしない。

本当に厄介な婆さんなのだ。

そんな伯母がついに昨日、岡山市内の病院に入院した。

本人はずっと住み慣れた家にいたかったのは明らかだが、食事も入浴もできず、ヘルパーさんもすべて拒否する状況では一人暮らしはもはや無理というのがお医者さんたちの一致した意見だった。

伯母がいなくなった家を片付けながら、1日の大半を過ごしていたベッドをようやく掃除した。

これまでは伯母が私たちさえも自分が寝るベッドには近づけようとしなかったため、布団の入れ替えも掃除も何もできなかったのだ。

畳ベッドの上に敷かれていたお布団には大きな黒いシミが付いていた。

一体いつからこの状態で寝ていたのだろう。

夏だというのに、電気毛布が布団の上に敷かれていた。

床に張り付いていたベッドをようやくのことで動かしてみると、周囲にはものすごい量の埃が塊になっていて、小さな虫もたくさん這い回っている。

よくこんなところに寝ていて病気にならなかったものだ。

ベッド脇の窓はいつも締め切られ、常にカーテンが閉まっていた。

近所の視線が気になったようだが、汚れたカーテンを取り外してみると、雨に濡れた裏庭の緑が実に清々しかった。

「いい部屋じゃない」

私も妻もそう思いながら、伯母がいる間になんとか家の模様替えをして、もっと綺麗な家に住んで欲しかったと痛感した。

家を綺麗にする提案も伯母には何度しただろうか?

その度に、「そんなことせんでええ。汚うしとるからこっちに来られな」と拒否された。

そんな伯母をどうやって入院させたか、ここ数日の説得の顛末を自分の覚えのために書き残しておきたい。

伯母の入院を目的に私が一人で帰省したのは、迎え盆の今月13日のことだった。

この日は、入院のことも認知症のことにも一切触れず、仏壇に線香を立てたりしながら雑談をして過ごした。

6月には話しかけても反応も鈍く、かなりやばい状況だったが、7月・8月と繰り返して帰省し泊まり込んで食事を一緒にし、毎日話しかけるうちに、少しずつ表情も和らぎ言葉も出るようになった。

13日の日も、伯母はとても落ち着いていて、話す内容は同じことの繰り返しではあったが楽しそうに私に話しかけてきた。

翌日14日、私は初めて伯母に入院の話をした。

「入院やこせん」と、伯母はいつものようにキッパリと拒否する。

こちらも予想した反応だった。

15日の日曜日には、東京に住む弟とビデオ通話を繋ぎ、弟からも入院を強く勧めてもらった。

私と弟は子供の頃、父親の転勤で東京から岡山に引っ越した際に7〜8年この家で伯母と同居したことがある。

幼かった弟は伯母の後ろをついて回り伯母も弟のことをとても可愛がっていた。

認知症が進んだ今も時折弟の話をすることがあり、弟からの説得には効果があるのではないかと考えたのだ。

しかし、それも無駄だった。

最初は楽しそうに話していたが、弟がしつこく入院を勧めるので伯母もだんだん嫌になったようで、「入院はしません。忙しいのに時間を取らせてすいません」と次第に他人行儀になり、説得は失敗に終わった。

そして入院前日の16日、遅れてやってきた妻を交えて3人で静かに食事をしながら、私は朝昼晩の食卓でやさしくに伯母に話しかけた。

それまでの伯母のリアクションを観察した結果として、私は2つの方向から伯母を説得することを決めていた。

一つは、伯母が大切にしてきた近所への体面、プライドに訴える作戦。

「このまま放っておいたらどんどん頭の様子が悪くなって、夜中に徘徊したりして近所の人にも迷惑をかけるよ。せっかく「しっかり者」で人に迷惑をかけずに生きてきたのに、おばちゃん自身が恥ずかしいことになるよ。今のうちに専門の病院で診てもらって、これ以上ボケんように治療してもらおうよ」という具合だ。

もう一つは、子供の頃に伯母に可愛がってもらった私と弟のために入院してほしいと懇願することである。

自分のためには必要ないと思っても、私たちがお願いして私たちが助かるということであれば、伯母は同意してくれるのではないかと考えたのだ。

弟とは違う私のやさしい説得に対し、伯母は大きな抵抗も示さず耳を傾けてくれていたが、「だから明日の朝、お出かけの格好して車に乗ってくれるだけでいいから」と言うと、「上手に言うけど、わたしゃ入院はせんよ。絶対にせん」と吐き捨てて自分の部屋に出て行き、いつもは開けっ放しのドアをバタンと閉めたのだ。

3日間の努力はこの瞬間、すべて水疱に帰した。

そして、17日当日の朝を迎えた。

前回ワクチン接種の際に激昂した妻は、自己嫌悪に陥って今回は説得を私に一任するということになっていたが、さすがに昨夜の説得失敗で心中穏やかに眠ることができなかったようで、夜中の2時に私を叩き起こし、「入院という言葉を使わないで説得したら?」とか、「別の場所に行くことにしてとにかく車に乗せたら?」とかいろいろな提案を私にしたのだ。

私もすっかり目が覚めてしまって、いろいろ作戦を練り直した。

「入院というワードを使わない作戦しかないかもしれない」

追い詰められた私は、朝食の時、伯母にこう話しかけた。

「このあいだ大きな病院で検査を受けたじゃろう。今日の11時から検査の結果を聞きに行くんじゃ。おばちゃんも一緒に行って、先生の話を聞いてこれからどうすればいいか相談したらどう? もし早く天国に行きたいなら、先生に直接話したらいろいろアドバイスがもらえるかもしれないよ」

かなり苦しいロジックであった。

それまで散々、検査の結果認知症がかなり進んでいることがわかったので入院しろと言ってきたのだ。

しかし、この苦し紛れの説明が伯母には受け入れ可能だったらしい。

「検査の結果を聞くんか。私も行った方がええんかな」と聞いてきた。

私はすかさず、「俺らも聞くけどおばちゃんが一緒に行って先生の診察も受けてもらう必要があるんじゃ」と言った。

伯母は「行かない」とは言わず、自分の部屋に戻ってゴソゴソと外出の準備を始めた。

昨夜の説得が失敗した後、伯母は伯母なりに私を困らせていると感じ、いろいろと悩んだようだ。

「入院は嫌だけど、検査の結果を聞きに病院に行くだけならば付き合ってやろう」と思ったのかもしれない。

さらに、前の日に話し合ったことをほとんど忘れてしまうため、私の話の矛盾もあまり気にならなかったようだ。

こうして、伯母はゆっくりと準備をし、抵抗することもなく私の車に乗り込んだ。

病院は11時の予約だったが、伯母がその気になっている間に出発しようと午前9時に家を出た。

予想したほど道路は混んでいなかったので、早く病院に着きすぎると思い、伯母が女学校に通った山陽学園を見に行くことにした。

阿津という岡山市の対岸の集落で育った伯母は地元ではいいところのお嬢さんだったらしく、小学校を卒業すると岡山市内にある私立の女学校に進学した。

親元を離れ寄宿舎で暮らしていたが、昭和20年岡山の街が米軍によって空襲された時にはたまたま実家に戻っていて難を逃れたという。

最近の伯母は、結婚した後のことはあまり話さず、実家がある集落のことや女学校の話をよくしていた。

認知症が進むと、患者さんは最近のことほど忘れ、昔の記憶が蘇るのだという話はよく聞く。

伯母が学んだ山陽学園は、今では中学高校だけでなく大学や短大まで持つ大きな学校法人に成長し、男子生徒も受け入れているようだ。

真新しい大学のキャンパスに佇みなたら、伯母は「ここは来たことがねえなあ」と言いながら長い間建物を眺めていた。

病院には、予約の1時間近く前に到着した。

河田病院のシルバーリハビリテーションセンター、通称「SRC」。

河田病院は岡山では最も歴史のある精神科の病院で、伯母がかかるのは認知症の高齢者を専門に扱う老人科の病棟である。

妻が先に受付をする間、私は伯母と一緒に車の中で待っていた。

「入院するとは言わずに連れてきた」ということを妻が病院側に伝えたが、さすが精神科の病院だけあってそんなことは朝飯前といった様子だったそうだ。

その後伯母を連れて病院に入り、検温と手の消毒をしてロビーで30分ほど待つ。

伯母は自宅から持ってきた新聞を眺めながら大人しくしていた。

10時45分ごろ名前を呼ばれ、先生の診察室に3人で入る。

担当の医師は前回同様やさしい女医さんで、ゆっくりとした口調で伯母に話しかけた。

「このあいだ検査をしていただいた結果、少し心臓が悪くて血圧が高いことがわかりました。このままだと腎臓にも悪い影響があるので治療が必要です」

女医さんは認知症の話はまったくせずに心臓の話をした。

私は思わず「心臓も悪いんですか?」と聞いたが、先生は軽く頷くだけで伯母に向かって「入院が必要ですが、入院されますか?」と聞いた。

決して伯母を急かすことはせず、ゆっくりと伯母の反応を見ている。

伯母は戸惑った様子で私たちの方を向く。

「息子さんたちと相談されてもいいですよ」と女医さんが言っても伯母は言葉を発しない。

あれだけ私たちを困らせた人とは思えないほど、医師の前では入院を拒絶しなかったのだ。

女医さんはじっくりと時間をかけて伯母の答えを待ち、「いいですか?」と再度聞くと、伯母は何も言わずにかすかに頷くような仕草をした。

すると「いいですね。じゃあ、スタッフを呼びますから一緒に2階に行ってください」と言い、診察室に入ってきた数人のスタッフに連れられて伯母は静かに出て行った。

残った私たちは女医さんの説明を受けながら、入院の手続きをする。

「入院(医療保護入院)に際してのお知らせ」という書類には、こんなことが書いてあった。

  1. あなたは、精神保護指定医の診察の結果、入院が必要であると認められ、2021年8月17日午前11時、入院されました。
  2. あなたの入院は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第33条第1項の規定による医療保護入院です。
  3. あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立ち会いのもとで、あなたに開封してもらい、その異物は病院にあずかることがあります。
  4. あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又はあなたのご家族等の依頼によりあなたの代理人となろうとする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
  5. あなたの入院中、治療上必要な場合には、あなたの行動を制限することがあります。
  6. もしもあなたに不明な点、納得にいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出てください。それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない場合には、あなた又はあなたのご家族等は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、岡山市長に請求することができます。

さすがに精神科の病院である。

かつて人権を無視した措置が横行した精神病院のあり方が問題となり、平成7年に成立した「精神保健福祉法」に基づいて患者の人権を擁護する観点から一般の病院よりも厳しいインフォームドコンセントが義務付けられているようだ。

精神保健福祉法の第33条第1項に定められている「医療保護入院」というのは、「入院を必要とする精神障害者で、自傷他害のおそれはないが、任意入院を行う状態にない者」を対象とし、「精神保健指定医の診察及び家族等のうちいずれかの者の同意が必要」という要件が定められている。

つまり、伯母は「精神障害者」にあたり「任意入院を行う状態にない者」と認められたのだ。

女医さんは伯母が退出した後、私たちから詳しい話を聞き、さらに退院後自宅に戻すか施設を希望するかや延命措置を望むかどうかなど家族の意思を確認した上で「病状説明書」を書き上げた。

そこには、こう書いてあった。

  • 転倒や転落により骨折や頭蓋内出血をおこす可能性があります
  • 他患とトラブルをおこす可能性があります
  • 食事等を誤嚥し肺炎を起こすことがあります
  • 妄想性障害に対する薬剤を使用することがあります
  • 転院を要する時は当院に一任される
  • 心肺停止状態では、蘇生は希望されない

伯母は常々「長生きはせん」と言い続けている。

私の弟は伯母にとにかく長生きをしてほしいと言っていたが、私は伯母の性格や日頃の言動からあえて延命措置を望まないと医師に伝えたので、それが病状説明書にも反映されたようだ。

伯母の入院には、医師の他に担当の看護師、作業療法士、介護福祉士、精神保健福祉士、管理栄養士というチームが組まれる。

医師との話が終わると、様々なスタッフが入れ替わりやってきて私たちから様々な聞き取りを行った。

伯母の最近の様子だけでなく、どんな人生を歩んできた人なのか、どんな性格なのか、何が好きで何が得意なのか、食事の好みや苦手な食材などなど、伯母について私たちが知るあらゆることを引き出していく。

みんな女性のスタッフで比較的若く、何より全員とても優しくて感じがいい。

これならば、偏屈な伯母でも心を開いてくれるのではないか、精神科の病院ということで多少不安を感じていた私たち夫婦は、このスタッフさんたちとの対話を通して言葉では表せないほどの安心感を得た。

医師の診察室に入ってから、すべてのスタッフさんとの話し合いが終わるまで3時間近くかかっただろうか。

入院のスケジュールも詳しく説明してくれた。

目安は概ね3ヶ月で、入院1週間、2週間、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月目の目標を設定し、日々どのような生活をするのかも教えてもらえた。

面会も可能だが、現在は厳重なコロナ対策が取られているため、予約制でガラス越しの面会やオンラインを使った面会となっているそうだ。

携帯電話の持ち込みはできないが、ナースセンターに電話すれば本人を電話口に連れてきてくれて直接電話で話すこともできるという。

女医さんを筆頭にお会いしたすべてのスタッフが認知症のプロに見え、とても頼もしい印象を受けた。

そんなこんなで、6月に伯母の異変に気づいてから始まった介護生活は大きな第一歩を踏み出したのだ。

1週間後には、病院側から伯母の生活ぶりについて報告をもらえることになっている。

伯母に電話をかけるのは、その報告を待ってからにしようと思っている。

集団行動が嫌いな伯母がすぐに病院の生活に慣れるとは考えにくく、しばらくは可哀想な精神状態が続くだろう。

必死でもがいている時に中途半端に電話すると里心を刺激してしまうのではないか、私を含め家族みんながそれを心配している。

伯母がいなくなった家に戻り、妻は早速大掃除を始めた。

絶対に使わない古く汚いものが家中に溜まっていたが、伯母の生活を不必要に乱さないためこれまで手をつけてこなかったからだ。

瞬く間にゴミ袋の山ができていく。

タイミング良く今週はこの地区のゴミの日が集中していて、17日が資源ゴミ、18日が燃えないゴミで、19日に燃えるゴミの日となっている。

今朝も朝5時ごろから起き出し、早速燃えないゴミのゴミ出しから始まった。

地区の公民館の前にゴミの集積所がある。

田舎の人は朝が早いが流石にこの時間だとさほどゴミは溜まっていない。

それでも一番乗りではなかったので、やはり田舎の人は早起きである。

この2ヶ月ほどこうして度々伯母の家のゴミを捨てているおかげで、ゴミを出す場所やこの地区のやり方もある程度理解できてきた。

押し入れを塞いでいた古い布団も車に積んで捨てにいくことにした。

伯母の家のあるのは、ほとんどが昔ながらの綿の布団で、重くてじっとりと湿っている。

長年押し入れに入ったままだった布団を一枚ずつ引っ張り出して捨てるか残すかをチェックしていると、布団の間から虫が這い出してきて、その度に妻が狂ったように殺虫剤を吹き付ける。

結局、敷布団や掛け布団、枕など10点以上を処分することにした。

向かった先は、西大寺という場所にある「岡山市東部リサイクルプラザ」。

ゴミ収集車も集まる大きな施設だ。

粗大ゴミの持ち込みも可能だが事前の予約が必要で、何事も先手先手の妻が東京から電話で予約を取っていた。

私は本当に伯母を入院させられるかまったく自信がなかったので、妻が予約の電話をしているのを聞きながら、「そううまく予定通りに行くかなあ」と思っていたが、なんとか妻の思惑通りことは進んでいる。

入り口で予約番号と名前を告げると、番号札を渡され誘導に従って処理場の内部に。

数人のスタッフの人が待っていて、運んできた布団をどんどん彼らに渡していく。

「毛布は粗大ゴミじゃなく資源ゴミなので本当は受け取れないんです。今日は特別に受けますが、次からは気をつけてください」と言われる。

布団や枕は大丈夫だが、毛布はダメ、ちょっと難しい線引きだ。

布団を捨てた帰り、ホームセンターに立ち寄り、汚くなったトイレの掃除用具や掛け時計など当面必要な物を購入した。

最も必要としていたのは玄関の鍵。

伯母の家の玄関は外側から鍵がかけられず、外出の際には玄関を内側から閉めて縁側のサッシを1か所開けたままにしてそこから出るという変な方法がとられていた。

しかし伯母はこの家に戻ってくる可能性は低い。

私たちも時々は家や畑の管理のために岡山に通うつもりにはしているが、空き家の状態が増えることは確実である。

本格的に玄関扉を交換することも考えたが、もしも伯母が家に戻れることにことになった時のことを考えると玄関はそのままの方がいいだろうと考えた。

そこでダイヤル式の南京錠を購入し、2枚の開戸に取り付ける金具を買った。

自分で金具を玄関扉に取り付けて、簡易の鍵が出来上がり。

見た目も良くないが、とりあえず不在であることは誰の目にもはっきりするだろう。

もし泥棒が入る気なら裏の方のガラスを割れば簡単に侵入できる家だ。

玄関だけを厳重に守っても意味はない。

もしも留守中に泥棒が入っても盗まれて困るような貴重品もないので、まずは来訪者に留守を知らせることができれば目的は達せられるだろう。

伯母が入院してわずか1日で、家から余分な物が消え、だいぶすっきりした。

できれば畳やふすまもきれいにしたいと思っている。

もともと伯母の卒寿のプレゼントとして家のクリーニングや畳替えをしたいと思っていたが、残念ながら実現する時には家の主人はすでにいないという状況になりそうである。

近所や伯母の姉妹などに入院の報告をすると、多くの人が「それはよかった。安心した」と言ってくれた。

みんな伯母の異変を感じ、遠巻きに見守ってくれていたが、人を寄せ付けない伯母の性格のためできることは限られてただただ心配することしかできなかったという。

2日目の夜を迎える伯母、少しは落ち着いていてくれることを願うしかない。

<吉祥寺残日録>岡山帰省2日目、認知症の伯母に初めて入院の話を切り出す #210814

<吉祥寺残日録>76回目の終戦の日、オンラインで弟も参戦し伯母の入院を説得する #210815

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