<吉祥寺残日録>久しぶりに井の頭公園をひと回り、日常が戻ってきた #210822

今日も気持ちよく昼寝をした。

岡山から帰省して、伯母の入院生活も軌道に乗り、徐々に日常が戻ってきたようだ。

今日は私の弟家族が伯母に電話をかけてくれたらしく、以前よりも元気そうだったとLINEをくれた。

そんな日曜日、久しぶりに井の頭公園をひと回りしてみることにした。

お茶の水橋に立つと、相変わらず「アオコ」によって水面が抹茶色に染まっている。

東京もかなりの雨が降ったようだが、夏が終わるまで池の水が元の色に戻ることはなさそうだ。

空を見上げると、夏の積乱雲に代わって筋雲のようなものも見え、わずかながら秋の気配を感じさせる。

公園はいまだに蝉時雨に覆われているものの、その騒々しさは既にピークを過ぎたようだ。

池のほとりを歩いていると、すぐ近くでツクツクボウシの鳴く声がした。

立ち止まり、音がする方向を注意深く探す。

いた!

すぐ目の前の手が届きそうな低い場所に止まっている。

私は動画でもその姿と声を撮影した。

セミという生き物も本当に不思議である。

生涯のほとんどを地中で過ごし、最後の最後で地上に這い出し、うるさく鳴いたと思ったらあっという間に死んでいく。

今朝も我が家のベランダに2匹のアブラゼミが死んでいて、妻から処分してと頼まれた。

死の間際、苦しそうに鳴きながら窓ガラスなどに激しく衝突しながらベランダで悶え苦しんで死んだのだろう。

もっと静かに、人知れずそっと最期を迎えることはできないのか・・・。

雨が多かったせいか、公園のじめっとした場所にはキノコたちが顔を出していた。

このキノコという生き物も不思議な存在で、植物ではなく菌類である。

多くの菌類では、その体は糸状になった細胞列である「菌糸」からなり、単独の菌糸の先端に胞子を作る。

しかし、菌類の中には、複数の菌糸が寄り集まって「子実体」という塊を作って胞子を大量に放出するものたちがいる。

そうした「子実体」の大きなものがキノコと呼ばれているのだ。

我々が普通に想像するようなキノコもあれば、どぎつい色をした気持ちの悪い奴もいる。

生物の営みは全て子孫を残すため。

キノコも胞子を放出したら役目を終え、あっけなく消えてしまうのだ。

野生動物たちは日々生きるためにエサを探し求め、決して「生き甲斐」とか「生きる意味」とかを考えて思い悩むこともないのだろう。

人間だけが集団活動によって食べ物を探すことから解放された。

お店に行ってお金を払えばとりあえず食料は手に入るのだ。

そうして食料を見つけることから解放され自由な時間を手にした人間は、自らの頭で「生き方」を考えるようになり、その結果「子孫を残す」というすべての生物に埋め込まれた本能からも解放され、子供を作るか作らないかも選べるようになった。

それは人間だけに許された特権であり、間違いなく恵まれたことではあるが、逆に「自分らしさ」や「生き甲斐」「生きる意味」といった他の生き物たちが考えることもないことで悩んだりもする。

ある意味では、贅沢なことだ。

玉川上水沿いの遊歩道を歩いている時に、木の幹に貼られた一枚の注意書きを見つけた。

「猛毒注意」「さわっちゃダメ!」「みつけたら近づかず案内所に知らせてください」

どうやら毒キノコの「カエンタケ」が公園に出没しているらしい。

「カエンタケ」は燃える炎のような形をした赤いキノコで、非常に強い毒を持つ毒キノコである。

致死量はわずか3 g(子実体の生重量)程度と極めて強力である。日本では6例ほどの中毒事例が報告され、計10名の中毒患者が出ており、そのうち2名は死亡している。また触るだけでも皮膚がただれる。数ある毒キノコの中でも、触れただけで皮膚から毒素が吸収される物は、カエンタケのみとされる。

出典:ウィキペディア

でも、こういう刺激的な注意書きを見ると、逆にカエンタケを探してみたくなるのも人間の不思議なところである。

私はこの林の周辺をキョロキョロしながら歩き回った。

しかし、カエンタケは見つからず、ちょっとがっかりした気持ちで家路についた。

介護という苦労から逃れて平穏な生活に戻ったのは嬉しいが、その瞬間から次なる刺激を求め始める・・・人間とは本当に厄介な生き物なのである。

<吉祥寺残日録>トイレの歳時記🌾七十二候「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」、井の頭公園にもヒグラシが鳴く #210812

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