<吉祥寺残日録>【百年前⏩1919.1.5】人気女優・松井須磨子、島村抱月の後を追い自殺 #210308

今日から首都圏では、緊急事態宣言の再延長に入った。

期限は2週間、3月21日までとなっているが果たしてどうなるか・・・?

この週末も、吉祥寺は人で溢れかえっていた。

一時に比べれば新規の感染者数も減り、暖かくなった陽気に誘われるように人が街に吸い出される。

街に来てみれば、たくさんの人たちが楽しそうに買い物したり飲食をしているので、「自分も大丈夫かな」と思って心を緩める。

まあ、これが人間というものだろう。

これでも日本人はまだ、自分を律している方だとは思うが・・・。

それでも、飲み屋にたむろしている人たちは、やはり感染リスクは高そうに感じる。

飲食店の夜間営業を短縮しただけで感染者数が減った事実は、リスクが高い人たちの存在を裏付けているのだろう。

そういえば昨日、三男夫婦が久しぶりに顔を出した。

三男のお嫁さんは、会社でコロナに感染して、回復した今も嗅覚が完全には戻っていないという。

ひとまず元気そうな顔を見て少し安心したが、それでも一緒にランチを食べるのはやめにして、前日買ったあった台湾産の「樹熟パイン」を4人で食べた。

売り文句の通り、芯まで食べられる美味しいパイナップルだったので、中国に虐められる台湾を応援するためにこれからも見つけたら買おうと思っている。

そんなコロナ禍の日常の中で、私は100年前について調べているのだが、今から100年前の大正時代のことって、自分で驚くほど知らない。

そんな大正時代のお話の中から、今日は、「スペイン風邪」によって亡くなった一人の有名人のことを書いておこうと思う。

その人の名は、島村抱月(しまむらほうげつ)。

当代きっての人気劇作家であり、歌舞伎にかわる新たな演劇運動「新劇」を主導する「芸術座」の主宰者である。

大正7年(1918)11月5日、抱月はスペイン風邪に肺炎を併発して亡くなった。

当時の新聞には、こう伝えている。

芸術倶楽部の主宰者として新劇の創設に貢献したる島村抱月氏は、去月29日世界かぜにかかり、本田主治医宮本博士の手当を受けたるも肺炎を併発し、本月2、3日ごろいったん軽快に向いしが、4日病勢にわかに革まり、昨5日午前1時53分牛込通寺町芸術倶楽部の二階において逝去せり

引用:東京日日新聞

『世界かぜ』というのがスペイン風邪、今でいうインフルエンザのことである。

「スペイン風邪」は、現在の新型コロナウィルスを上回るパンデミックを引き起こした。

当時の世界人口の3分の1にあたる5億人が感染し、1億人近くが死亡したとされるスペイン風邪だが、日本でも感染者数2380万人、死者数38万人という甚大な被害をもたらした。

新劇運動の指導者だった島村抱月もその犠牲者の一人ということになるが、彼を後世有名にしているのは、スペイン風邪でも演劇活動でもなく、一人の女優との大スキャンダルだったというのが面白い。

女優の名前は、松井須磨子。

島村抱月率いる「芸術座」の看板女優である。

2人が演出家と女優という関係を越えて不倫関係になったのは、イプセンの『人形の家』の稽古中だったといわれる。

古い価値観を打ち破って自立していく主人公ノラの生き方は、女性解放の一つのシンボルだった。

大正時代には、ロシア革命が起き、社会主義の熱が日本にも広がっていった。

護憲運動や普通選挙を求める大衆運動、労働組合や女性の権利を求める活動も勢いを増す。

今から見ても、大衆が様々な過去の重圧にあらがい、自由と平等を求めて戦ったキラキラした時代のように感じる。

三好徹著『大正ロマンの真実』という本の中から、島村抱月と松井須磨子の物語を引用させてもらおうと思う。

島村抱月は明治4年(1871年)、島根県浜田町の生まれで、佐々山滝太郎が本名である。神奈川県出身の裁判官島村文吾に見込まれて、娘のイチ子の婿養子として迎えられた。東京専門学校(早稲田大学の前身)を出たあと、小説や評論を発表し、さらにドイツ、イギリスに留学して帰国し、「早稲田文学」を再刊、早大教授のかたわら、坪内逍遥を助けて演劇運動に参加した。

大正2年になってから、坪内と別れて「芸術座」を組織した。日本の演劇は何と言っても歌舞伎がメインだが、島村はシェイクスピアなど西欧の芝居を取り入れた新しい演劇を作りたかった。

だが、彼を有名にしたのは、その方面での成功ではなく、彼としては不本意だったろうが、女優松井須磨子との恋愛事件だった。島村には、春子、君子、震也、秋人、俊子と5人の子がいたが、彼は妻子を棄てて須磨子との恋に走った。自宅は東大久保にあったが、島村は家にはめったに帰らず、牛込の芸術倶楽部の一室にずっと寝泊りしたのである。

当時の一般的風潮として、女性の場合は夫以外の男との恋愛沙汰に関しては厳しく断罪されたのに対し、夫の側のそれについては全く寛容だった。財力のある男が側妾を持つことは、社会的にほとんど公認であった。

島村の場合は、須磨子は側妾ではなく、芸術座の看板女優であった。彼女の主演するカチューシャは満都のファンを熱狂させた。文学や演劇ファンは別として、一般市民の中には、女優須磨子の名は知っていても、抱月の名を知らない人は多かった。

抱月はこの時代を代表する知性の持主と認められていた。男と女の仲は、知性の大小や有無とは関係ない、といってしまえばそれまでの話だが、抱月ほどのインテリを惹きつけた須磨子はどういう女だったのか。よほどの大女優だったのか。

須磨子は本名小林正子、明治19年(1886年)12月、長野県の松代の在の清野村の生まれで、9人兄弟の末っ子だった。当時の日本は、多産が政府によって奨励されていた。人口の少ない国家には将来の希望がない、という考え方である。小林家の9人は多い方だが、5、6人は普通だった。

こういう経歴については『須磨子の一生』(秋田雨雀・仲木貞一)を参考にしているのだが、同書によると、ふるいつきたくなるような美貌ではないが、どことなくきりっとした、男を引きつける魅力があったという。

(中略)

須磨子は抱月をたらし込んでいるとか、魔性の女だとかいうものが出てくると、坪内は不機嫌になるし、大学では風紀の紊乱を理由に教授辞任を求める声までが出てきた。

そういう状況になると、ひっこむどころか逆に前へ進むのが須磨子の性格だった。

須磨子はいまや島村抱月という一人の男に恋している、というよりも、そういう恋に恋しているのかもしれなかった。世間の非難にともすれば弱気になりかかる男を、須磨子は叱咤した。男が一言いえば、須磨子はその何倍も言い返した。

抱月はついに大久保の家を出た。

坪内が文芸協会を解散した。

抱月にとっては、文芸協会の解散は痛手だった。自分と須磨子の二人がよって立つところを失っただけならまだしも、多くの人たちにも迷惑をかけたのである。悩み、思い詰めた末に、<死のうか>という気になり、戸山ヶ原をふらふらと一晩中歩いたこともあった。

須磨子の方はその程度の障害にはへこたれなかった。

舞台がなくなったのであれば、舞台を作ればいいのである。文壇や演劇界に圧倒的な名声を持つ坪内の力を借りなくても、新しい劇団を作って新しい芸術をファンに提供できるのではないか。

抱月は、ありとあらゆる非難に耐えて、新しい劇団を作った。「芸術座」である。事実上の座長は須磨子であるが、抱月の後輩の早稲田派の劇作家が支持してくれた。彼らにしてみれば、古臭い感覚のボスがいつまでも権威を振りかざす時代は、もう終わってもいいはずである。

大正という時代は、明治と比べると、人々の精神や思想が解放的になってきていた。

いわゆる大正ロマンティシズムが人々を明るくした。男が偉くて女は従属物にすぎないという考え方が、人間性の本質に背くものであることを教えるのは、書物や講演であるが、もっとも効果的なのは演劇である。古来の歌舞伎にはない新しい劇、つまり新劇によって人々の前に繰り広げられる物語は新鮮だった。

抱月はその先頭に立つリーダーだったといってよい。その運動の過程で生まれた恋愛を貫こうとするカップルが古くさい連中によっていじめられているのではないか。愛を貫くためなら妻子も棄てるというのは、新しいロマンティシムズの典型ではないか。

抱月や須磨子を支援しようという早稲田派の若者たちが立ち上がった。

抱月が「芸術座」を結成できたのは彼の情熱と行動力によるが、同時に早稲田派の支援も大きなったのである。

第一回の公演は大正2年9月、メーテルリンクの「モンナ・ヴァンナ」が成功し、さらに芸術座の人気を決定的にしたのは、翌年3月のトルストイ原作の「復活」であった。

カチューシャかわいや別れの辛さ せめて淡雪とけぬ間に

という須磨子の歌う「カチューシャの唄」は、津々浦々にこだました。

須磨子は抱月に、人々に来てもらうのではなくて、芸術座の方から人々のもとへ行けばいいのです、と説いた。

かくて地方公演は実現し、翌年にかけて京阪神から九州までカチューシャの歌声は響き渡った。芸術座の須磨子あるいは須磨子の芸術座の名声は決定的なものとなった。そして地方公演は、東北、台湾、朝鮮、満州にまで及んだ。

この段階になると、もはや抱月・須磨子は一体化し、世間の不倫だの背徳だのといった批判の声は、全く無力になってしまう。白眼視する方が、かえって滑稽でさえある。

それだけに抱月の急死は、須磨子にとって決定的であった。

須磨子は抱月の遺体にとりすがり、

「先生の顔のところへ、自分の顔を押しつけるようにして、『あれほど、死ぬ時は一緒に死ぬって約束しておきながら、なぜ一人で死んでくれました。なぜ一人で死んでくれました』と非常に高い声で叫んだ」(秋田雨雀)

という証言からすると、二人は世間の冷たい攻撃を浴びていたころ、いっそのこと死んでしまおうか、と語り合ったことがあったのかもしれないという想像も可能である。

実際、抱月の死の2ヶ月後、大正8年1月5日の早朝に須磨子は芸術倶楽部の楽屋で緋縮緬のしごきを用いて縊死した。

実兄あての遺書はこうであった。

「兄さま

私はやっぱり先生の所へ行きます。あとあとのところは坪内先生と伊原先生に願って置きましたから、いいようになすって下さい。ただ私の墓だけは、是非とも一緒の所に埋めて下さるように願って下さいまし。二人の養女たちは、相当にして親許へ帰して下さいまし。

では急ぎますから。      すま子」

万年筆の走り書きだった。

抱月の墓と一緒にして欲しい、という願いは、叶えられなかったが、友人たちの手によって、彼女を葬った牛込の多聞院に、芸術比翼塚が建立された。

大正時代の歴史を調べていると、明治や昭和初期に比べて、現代の日本に近い印象を受ける。

戦争をしていない時には、人間は恋愛や芸術、さらには権力闘争に関心を向けるものらしい。

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最近で言えば、卓球の福原愛ちゃんの不倫疑惑だったり、組織委員会の森会長の女性蔑視発言だったり、国会で追及が続く官僚の接待問題だったり・・・。

今のニュースを見ていても、コロナ以外は、不倫や不祥事の話ばかりだ。

テレビを見るのもうんざりしてしまうが、こんな状況も「平和の証」だと考えれば少し気が楽になる。

不倫や差別や権力争いは、人間社会から消えてなくなることはない。

そうした話題が覆い隠される時代というのは、戦争で国民生活が統制される時代か、権力者によって言論が封じられて、お仕着せの政府広報しかメディアが伝えなく時代なのだから・・・。

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