<吉祥寺残日録>「般若心経」の意味を知る #201216

今日12月16日は父の命日。

私の父は79歳の時、くも膜下出血で突然倒れた。

朝、私が歯を磨いていると、突然妻が「これ読もうか」と言いながらあるものを持ってきた。

『般若心経』だった。

そんなものが何処にあったのか、そもそもなぜ般若心経が我が家にあるのかも覚えていないが、とにかく妻の提案が突拍子もなく、しかし妙に私の興味を駆り立てた。

葬式や法事の席でお坊さんに勧められるままに般若心経を読んだことは何度かある。

漢字にふりがながつけてあるので、お坊さんの読経に合わせて必死でその平仮名を目で追いながら発音したものだ。

意味もわかなぬままに・・・。

妻の提案を聞いて、私は瞬時に2つのことを思いついた。

一つは、般若心経のユーチューブがあるかもしれないので探してみようということ。

もう一つは、般若心経の意味を知りたいということだった。

YouTubeで「般若心経」を検索してみると、案の定、たくさんの動画が並んでいた。

我が家は一応、真言宗高野山派ということなので、「高野山奥の院」と書かれた動画を再生してみた。

部屋の中に読経が流れると、ちょっと命日っぽい雰囲気が漂う。

不思議なものだが、オヤジの供養になった気がする。

さて、続いて般若心経の意味を調べる。

まずは、般若心経の全文。

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。

無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知。般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。

即説咒曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

漢字ばかりで意味不明。

何となく、馴染みがあるのは「色即是空」のあたりぐらいだろうか。

昔は「色欲を断て」という僧侶向けの道徳のようなものかと思っていたが、本当の意味は全く違う。

私が見たのは佐藤隆定という曹洞宗の僧侶でエッセイストの方が書いたサイト「禅の視点〜Life〜」

『般若心経』が一行一行現代語に訳してあった。

それによると・・・

タイトルにあたる「摩訶般若波羅蜜多心経」は、『存在が存在することの意味を説いたお経』という意味なのだという。

『存在が存在することの意味』とは何とも哲学的である。

「般若心経」にハマる人が多いと聞くが、それは宗教のイメージを超えた哲学的な「深さ」に魅了されるのだろうというのが私の第一印象だった。

それでは、般若心経を読んでいく。

まずは、般若心経の冒頭部分、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」について佐藤さんの現代語訳を見てみる。

私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。

その真実について、お伝えしよう。

私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。

だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした

しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。

確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである

その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。

他にも般若心経の現代語訳が書かれたサイトはあるが、佐藤さんの訳はとても物語的であり哲学的であって、この冒頭部分からなぜか惹きつけられるものを感じた。

そして、例の「色即是空」が入った部分、「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是」の意味である。

弟子への語りかけから始まる。

ブッダの弟子のシャーリプトラよ。

私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。

今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。

まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。

つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ
これは事実として理解できるね?

体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。

この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。

「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。

私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。

存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。

そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである

もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。変化をしないから固定的な物体なのだ。

しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。

どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している

そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。

つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。

これが何を意味しているかわかるだろうか?

そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ

固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。

ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる

できる、というよりも、「認識してしまっている」と言ったほうがより正しいかもしれない。

しかし真実としては、自分というものは存在しない。

これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである

「色即是空」とは、すべてのものは「空(くう)」であり、変化するという世界観を示す言葉だったのだ。

釈迦が考えに考え抜いてたどり着いた「真理」。

深く物事を考えずに生きてきた私などには直ちに理解できることではなさそうだが、心の奥底では妙に納得している自分を感じる。

還暦過ぎまで実社会に揉まれて生きてきて、家庭を持ち、子供を育て、ようやく仕事から解放された今になって初めて感じる心の平穏。

どこか、「色即是空」という境地をすんなりと受け入れられる気がするのだ。

般若心経の後半部分には、こんな部分がある。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

意味はこんな感じだ。

あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。

それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。

じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う

ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。

私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。真実を受け取るとは、知識で理解することではない

だから、得ることなどできないのだ。

頭で理解するんじゃないらしい。

これが「悟り」ということか・・・?

しかし、「空」が体得できると、こんな感じになるようだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである

わだかまりを抱くことが何もない。

わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。

心に何の恐れも生じないのだ。

近頃の私の心境は、かなり「空」に近い気もする。

ひょんなことから意味を調べてみた般若心経だが、想像以上に奥が深そうだ。

真言宗以外にも様々な宗派で読まれていて、お坊さんによってその解釈も様々なようなのでそれがまた面白い。

YouTubeをチェックしていると、こんな動画もアップされていた。

今日をきっかけに、仏教の知識も少し身につけられればと思う。

今度お寺で「般若心経」を唱えることがあれば、少し違った気持ちで読めるかもしれない。

1件のコメント 追加

  1. wildsum より:

    こんにちは!般若心経、いいですね。実は、わたしの父の命日には、いつも、アプリの読経といっしょに読経しています。般若心経の意味ですが、わかりやすい解説、ありがとうございます。

コメントを残す