<吉祥寺残日録>追悼・坂本龍一さん!思い出の名曲「ZERO LANDMINE」を20年ぶりに聴いた #230404

坂本龍一さんが亡くなった。

YMOの時代から代表曲「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」まで、それぞれの時代、何度坂本さんの音楽を聴いてきたことか。

しかしリスナーとしてではなく、元テレビマンとして彼の訃報に接して思い出すのは、やはりあの大型特番のことである。

21世紀が始まったばかりの2001年春に放送された「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」というスペシャル番組。

反戦を訴える坂本龍一さんが地雷撲滅をテーマに曲を作り、それを世界各国のアーティストが一緒に歌う。

一世を風靡した「We are the World」をベースに、地雷ゼロを目指すキャンペーンをテレビで仕掛けたのだ。

番組の趣旨に賛同し、ドリカムやミスチル、GLAYら当時のトップミュージシャンたちが参加してくれた。

地雷に苦しむ国々を坂本さん自身が訪ね、その国の音楽を取り込みながら楽曲を制作、テレビの生番組の中でトップアーティストや海外の音楽家を交えて一度限りの大合唱を行ったのだ。

時間にして18分26秒、アメリカと韓国を衛星で繋ぎ、中継のタイムラグを埋めるために技術的な試行錯誤も行なった上での壮大な実験だった。

生放送に合わせて地雷ゼロキャンペーンの募金を行ない、後日発売したCDの売り上げも全て地雷除去活動に寄付した。

当時はまだSNSもYouTubeもない時代だったが、検索してみるとYouTube上に坂本龍一さんの「ZERO LANDMINE」関連の動画がいくつもアップされているのが見つかった。

誰がアップした動画かは不明だが、そのおかげで私も22年ぶりにあの名曲を聴くことができたのだ。

この番組は、坂本龍一さんと親交があった私の後輩がものすごい執念で実現させた企画で、当時編成局にいた私はその後輩の相談に乗りながら黒子として営業セクションなど社会の調整にあたった。

テレビ局に入って初めて報道局を離れ、慣れない編成の仕事を始めたばかりだったので、ストイックな報道の現場と現実的な営業の現場の間に挟まれて嫌な汗をかいた記憶が蘇る。

もしあの時、制作サイドにいたならばもっと良い貢献ができたと思えて今でも残念である。

YouTube上には、番組の裏側や坂本さんがあの曲を生み出す過程を描いたメイキング番組もアップされていた。

見ていると、有名アーティストに混じって、番組制作に関わった見慣れたスタッフたちの顔も映っていてとても懐かしかった。

あの頃はまだ、テレビには自由があって、こんな型破りな企画も実現できたんだなあと思う。

ほんの20年ほど前なのに、なんだか隔世の感がある。

坂本龍一さんは私たちと同じ時代を生きたカリスマだった。

テレビの側にも、普段テレビには出ないそうしたカリスマたちを収容するだけの幅の広さもあった。

「ZERO LANDMINE」の中には、私が取材したカンボジアやボスニア紛争の映像も登場する。

地雷は貧者の兵器としてアジアやアフリカの紛争国で多数使われた。

そして今も、ウクライナ各地に新たな地雷が埋められている。

日本のテレビ局がキャンペーンを行なったぐらいで地球上から地雷がなくなることはないだろう。

でもそうして声を上げていくこと、音楽で世界に繋ぐこと、映像で視聴者の心に直接訴えることは無駄ではない。

番組放送後に発売された「ZERO LANDMINE」のCDはオリコンチャートの1位となり、予想以上の売り上げを記録した。

坂本さんはその後も一貫して反戦、反原発を訴え続けたと聞く。

音楽はただ美しいだけではなく、人の心を打つメッセージを秘めている。

私が直接手がけた番組ではないものの、坂本龍一さんの死をきっかけに、20年前のあのスペシャル番組のこと、そして坂本さんが作った「ZERO LANDMINE」の曲が私の心を妙にザワつかせるのである。

あの番組を制作した私の後輩ももうテレビ局を去った。

残った現役の後輩たちには、マンネリを脱し、時には制作者の想いが溢れるような熱い熱い番組を作ってもらいたいと改めて思う。

坂本さんの訃報に接してYouTubeで坂本さんの楽曲を探す中で、彼がウクライナへの想いを込めて作った曲に出会った。

「”Alexei and the Spring” for Ukraine」

ガンと戦いながら最後まで音楽でメッセージを発し続けた坂本龍一さん。

尊敬すべき日本人としてその生き方を私も学び、自分の余生に活かしていければと思う。

坂本龍一さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

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