<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「アメリカ闘争の1960年代」 #220818

ファッションデザイナーの森英恵さんが今月11日、都内の自宅で亡くなった。

96歳の大往生だった。

ファッションには無頓着な私でも、三宅一生さんに続く相次ぐ訃報に接し、時代を切り開いた先駆者たちの活躍を懐かしく思い出しながら、熱量の高かった遠い昔の記憶が蘇る。

私はどんな時代を生きてきたのか?

この夏、急にそんなことが気になり出した。

私は昭和33年、第二次大戦の終結からまだ13年しか経っていない1958年に東京で生まれた。

東京タワーが完成した年、まさに「三丁目の夕日」の時代である。

生家は南青山にあったボロボロの官舎、4畳半一間でトイレも台所も共用だった。

風呂など当然あるはずもなく、親に手を引かれて砂利道を歩き、当時「スーパー紀ノ国屋」の裏にあった銭湯に通っていた。

それはいい時代だったのか、悪い時代だったのか、幼い私には何の記憶もないが、表参道交差点近くの幼稚園に通い、今では考えられないような東京のど真ん中で6歳までを過ごしたのだ。

歴史として当時の日本を振り返れば、1964年のオリンピックに向かって東京が大きく変貌していた時期であり、安保改定に反対するデモ隊が総理官邸を取り囲んだ時代でもあった。

そうした断片的な出来事を世界的な視野で繋ぎ合わせて、私が生きた時代を立体的に理解したいという思いから新たなシリーズを立ち上げる。

題して『私が生きた時代👀』。

まずは最近見たドキュメンタリー番組を材料にして1960年代のアメリカを振り返ってみたいと思う。

参考にしたのは、NHKのBSで放送された「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」というシリーズから『アメリカ闘争の60s』。

この番組は、映画、流行、社会風俗といったサブカルチャーを通してそれぞれの時代の空気を浮き彫りにしようというドキュメンタリー番組である。

大好きだった思い出の映画が次々に登場するこの番組を見ながら、「私の人格はまさにこの時代に作られたのだ」と確信した。

ある意味、精神がタイムスリップするような強烈な興奮と気づきを与えてくれた番組だとも言える。

まだ私が子供だった時代の世界はどんなものだったのか、番組の流れに沿って時系列で振り返ってみたい。

まず最初に紹介されるのはアルフレッド・ヒッチコック監督の映画「サイコ」。

1960年公開のサスペンス映画だ。

自動車が物語の重要な要素となっていた。

車社会と呼ばれるアメリカだが、大衆にまでマイカーブームが到達したのは1960年代だった。

ドライブスルーのレストラン、ドライブインシアターといった私たちが憧れたアメリカ文化はこの時代に全米に広まった。

1960年の大きな出来事といえば、アメリカ大統領選挙。

副大統領だった共和党のニクソンと民主党の新星ケネディが争った。

高度成長を遂げていた豊かなアメリカの継続を訴えるニクソンに対し、ケネディは「ニューフロンティア」を掲げアメリカ社会の変革を訴えた。

当時のアメリカには人種差別が色濃く残り、有色人種による施設使用禁止を認める「ジム・クロウ法」がまだ生きていた。

これに抗議して白人専用のカウンターを占拠する「シット・イン運動」が始まったのも1960年2月だった。

作家で「ニューヨークマガジン」の編集長も務めた1954年生まれのカート・アンダーセン氏はこう分析する。

『当時、問題となっていた公民権やさまざまな改革など社会を進歩させる全てに対して、「ニューフロンティア」はあまりに巨大で漠然としていましたが、アメリカ人をワクワクさせたのです。何かが変わると国民に思わせたのです』

公民権運動の先頭に立ったのはマーティン・ルーサー・キング牧師。

そして時代を代表する歌手ボブ・ディランは、殺された公民権運動家メドガー・エヴァーズを歌にした。

ケネディ、キング、ディランといった新たなヒーローたちが登場する一方で、南部を中心に変化に抵抗するKKKなどの白人至上主義者による銃撃や爆破事件が相次ぐようになる。

プロテスタントの秘密組織は、アイルランド系カトリック出身のケネディにも反感を抱いた。

そんな南部の空気が詰まった当時の映画がジョン・ウェイン主演・監督の「アラモ」である。

メキシコからのテキサス独立戦争を描いた1960年公開の大作映画は、自由のために命を投げ打って戦い戦死した英雄たちの物語だ。

こうしたバックグラウンドなど全く知らなかった私はこの映画にとても興奮し、英雄的な死を遂げた主人公たちに心酔したことをはっきりと覚えている。

共和党を支持する保守派の大スターだったジョン・ウェインは、公民権運動には否定的だった。

『黒人はたくさんいるからアメリカに対する反対意見も恨みも当然あるだろう。だが俺たちは無責任な奴らにリーダーシップと判断の権威を与えるべきでないと考えている』

保守派の支持はニクソンに集まり、ニクソン有利のまま選挙戦は進んだ。

しかしその頃家庭に普及し始めたテレビが奇跡を起こす。

1960年9月26日に行われた討論会は、それまでのラジオだけではなく史上初めてテレビでも同時放送された。

強いアメリカの継続を訴えたニクソンに対し、ケネディはリンカーンの名前を持ち出した。

『1860年の選挙の時、リンカーンはこの国が生き残るかどうかは奴隷制にあると言いました。1960年の今でも問題です。自由へ舵を切りましょう』

ポップカルチャーから時代を読み解く異色の歴史学者、1959年生まれのボストン大学、ブルース・シュルマン教授はこの討論会についてこう指摘する。

『ラジオで討論を聞いていた人たちはニクソンが勝ったと思いましたが、テレビの視聴者は全く違った印象を持ちました。ニクソンは良い印象を与えなかった。どうカメラへアピールすべきかわからなかったのです』

テレビの歴史が語られる時、その影響力を示す例として常に取り上げられるこの大統領討論会こそ激動の1960年代の始まりだったのである。

テレビ討論会の1ヶ月後キング牧師が逮捕されると、ケネディは白人票を失うリスクを覚悟で牧師の解放のために奔走し、そして勝利した。

その翌年1961年に公開されたのがオードリー・ヘップバーン主演の「ティファニーで朝食を」。

魅力的なオードリーは一躍1960年代のアイコンとなり、彼女のファッションも一世を風靡した。

しかしこの映画には深いテーマが込められているとシュルマン教授は語る。

『オードリー・ヘップバーンがホリーという魅力的な役を演じたこの映画ですが、実はアメリカ文化の歴史と伝統を物語っていると思います。つまり小さな田舎から大都会ニューヨークなどの都市に出てきて自分自身を作り直す人の物語なのです。この映画の本当に面白いところはファッションやサングラスやニューヨークの美しさではありません。そのきれいなものの裏にある荒々しさ悲しい過去を感じさせるところです』

パーティに明け暮れる気ままな娘と思われたオリーも、実は貧しい田舎から逃げ出して都会に来たことが明かされる。

彼女には幼い頃に結婚させられた夫もいた。

この時代、都市と地方の格差は大きく広がり、貧しい田舎からは、男は軍隊に女は夜の街へと人が流出していく。

多くの貧しい人たちが逃げ込んだ都会でも貧富の格差が急速に広がっていったのが1960年代なのだ。

1963年に出版されたジャーナリストのベティ・フリーダンの著書「女らしさの神話」は女性解放運動へと繋がっていった。

シュルマン教授『ホリーのような若者が10代を過ごした1950年代は家庭円満の時代でした。世話好きな父親、愛情深い母親、そしておっちょこちょいだけど良い子どもたち。1960年代の若者たちはそれは見かけほど順調ではなかったこと、1950年代のアメリカの理想は思い込みであり見せかけだと理解し始めたのです。そんな家庭や抑圧的な結婚から逃げたいと切望したホリーのような人たちがいたのです』

1961年公開の映画「ウエスト・サイド物語」も私の大好きな映画だった。

大ヒットした曲や格好いいダンスに魅了され何度も見たこの映画も、この時代のアメリカ社会で存在感を増しつつあった移民問題を描いた作品として紹介される。

シュルマン教授『「ウエスト・サイド物語」はアメリカ社会の人種的な緊張を明るみに出しました。白人とプエルトリコ系のギャングの対立を描くことによってです。肌の色が違っても同じ血を流し同じように空腹になり同じように涙を流す。この映画には60年代初期の未来への願望と希望、そしてアメリカの人種問題についての未来を探求する意志が込められているのです』

この映画が公開された1961年には、米ソの宇宙競争が激化し、ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成功させた年。

同時に核兵器や大陸弾道弾の開発も積極に進められ、核戦争の恐怖が世界を覆い始めてもいた。

そんな冷戦激化の中で、移民問題を直視した「ウエスト・サイド物語」はこの年のアカデミー賞で作品賞をはじめ10部門を独占した。

続いて紹介されるのは1964年公開、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」。

1962年に起きたキューバ危機を下敷きに核戦争の狂気を描いたブラックコメディーである。

それほど当時の人々は核兵器によるこの世の終わりに怯えていたのだ。

キューバ危機はギリギリで回避されたが、その時実際に核戦争を覚悟したとされるケネディは、1963年11月22日、ダラスで暗殺された。

そして映画が公開された1964年8月に起きた「トンキン湾事件」を受ける形で、アメリカは本格的にベトナム戦争に介入する。

当時のアメリカでは圧倒的多数の国民が戦争を支持していた。

アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまり始めた1965年に大ヒットしたのがミュージカル映画の傑作「サウンド・オブ・ミュージック」だった。

「ドレミの歌」「エーデルワイス」など数々の名曲が彩るこのミュージカルは、ナチスドイツが併合したオーストリアが舞台。

ナチスへの協力を拒みアルプスを超えてスイスに亡命する家族の物語には、戦争の中でもはっきりとした勇敢さを持つというメッセージが込められていた。

シュルマン教授『とても勇敢な物語で、ベトナム戦争に介入するような複雑さや曖昧さがありません。そういう純粋さが1960年代に多くの人に受けた理由です。つまり良い戦いを思い出させたのです。敵がはっきりしていて邪悪で、良い人は良い人だった時代を思い出させた。それが大人気になった理由です』

この映画の中で主人公に語りかける修道女の言葉。

「隠れていても問題は解決しません。立ち向かいなさい。あなたは自分の人生を生きるために生まれてきたの」

このシスターの言葉が、ベトナム反戦運動に立ち上がる若者たちを勇気づけたという。

戦争を拒否することも、自分の人生を生きるための勇気ある選択だ。

あの素敵なミュージカル映画がベトナム反戦運動にも影響を与えていたとは驚きだ。

ジョンソン政権は1965年3月、ローリング・サンダー作戦によって北爆を開始する。

その4ヶ月後、人気絶頂のビートルズが新曲「ヘルプ!」を発表、11日間のアメリカツアーでは50万人以上を動員した。

この時、ビートルズとエルヴィス・プレスリーの対面が実現したのだが、ジョンソン大統領を支持し愛国者として知られたプレスリーに対しジョン・レノンはベトナム反戦の意思を示し、気まずい対談になったという。

拡大するベトナム戦争をめぐって国論が二分する中で、全米の注目を浴びたのがボクシングヘビー級チャンピオン、カシアス・クレイ、のちのモハメド・アリである。

1967年、彼はテレビカメラの前でこう宣言したのだ。

『私はハッキリと今テレビの前で言います。行きません。1万マイルも遠いところに行って、貧しい人たちを殺したくありません』

当時はまだベトナム戦争への支持率が50%を超えており、アリのもとには数々の中傷や爆破予告が送られてきた。

徴兵を回避した罪でアリは有罪判決を受けボクシングライセンスも剥奪された。

しかしアリは法廷でアメリカ社会と戦う道を選ぶ。

『リングに行くのと戦争に行くのは一緒だろと言われます。お前は闘う男だ。何が違う?と。そう言ってくる人たちに私は言います。リングでボクシングをすることとベトナムで戦争するのは違うに決まってると』

アンダーセン氏『最初は反戦運動はほぼ無かったのです。そりゃ「死にたくない」と嘆く若者はいましたが、ほとんどのアメリカ人は戦争に行くことは義務だと感じていたのです。たくさんの黒人の若者が従軍させられていました。モハメド・アリ自身もそうですが、彼の発言は反戦運動と黒人の権利問題を結びつけました。差別の問題と戦争の問題は関係があるんだと気づかせたのです。だから彼は英雄なのです。しかも彼はチャンピオンです。その声ばみんなに届いたのです』

アリの言動に応えるように、若者たちの中に既存の社会に反発する「カウンターカルチャー」が育ち、モハメド・アリは彼らの英雄となった。

そんなカウンターカルチャーを代表する映画が1967年公開の「俺たちに明日はない」。

これまた私に強烈な影響を与えた「アメリカン・ニューシネマ」の先駆けとなった作品である。

シュルマン教授『「俺たちに明日はない」は61年や62年には作れなかった映画です。どの会社もこんなものを作ろうとしませんでした。ニューハリウッドの映画としての特徴は銀行強盗、つまり犯罪者の美化です。設定は1930年代ですが60年代後半の文化的な反逆に通じています。ボニーとクライドは犯罪者で犯罪行為をしていて法律を守る社会から逸脱していますが、自分の規範で生きているのです。法のために法に従うのでなく、正しいことに従おうと時にそれは権力者の矛盾を浮き彫りにするのです』

1968年1月には、北ベトナムによるテト攻勢によりアメリカ大使館が占拠された。

その銃撃戦の様子はテレビによって詳細に伝えられ、アメリカ国民は初めて戦場のリアルを目の当たりにする。

60年代後半の重苦しい空気を表した映画が1967年公開の「卒業」だ。

私はこの映画を8回は見た。

最も影響を受けた映画と言えるかもしれない。

アンダーセン氏『「ジェネレーション・ギャップ」という言葉もこの頃に生まれた言葉です。パーティーのシーンで一人の男が近づいてきて「ベンジャミン、お前にひとつ言いたい」と言うんです。たった一言「プラスティック!」 と』

このシーンは全く記憶に残っていないが、当時登場したばかりのプラスチックはまさに夢の素材であり、プラスチック業界に入れば将来安泰だと卒業して田舎に帰ってきた主人公にアドバイスしたのだ。

作って、売って、捨てる。

そんな時代の始まりも1960年代。

現在世界中で問題となるプラスチックの問題の端緒もこの時代にあった。

そして映画史に残るラストシーン。

主人公のベンジャミンは結婚式の会場に乗り込み花嫁のエレインを奪い、逃げる。

アンダーセン氏『神を冒涜するように教会を壊し婚約者を連れ去る。これは当時の若者が人生に対して抱いた感情をめぐるファンタジーのようなエンドです。何マイルも逃げるとか、大人にキレるとか』

バスに乗り込んだ2人。

笑顔はやがて消え、将来の不安が2人の顔をよぎるところで映画は終わる。

アンダーセン氏『最後は二人が「え?これからどうなる?」と言う表情をします。「これからどうしよう」と。ただのハッピーエンドではありません』

シュルマン教授『父の仕事を継ぎ、プラスチック業界に入りホワイトカラーの仕事につくこともできたでしょう。企業でどんどん出世し結婚し子を育て、親となる道を選ぶこともできたでしょう。しかし60年代後半に大人として社会に出る彼はもはやその道を想像できないのです。ベンジャミンは反体制の人物ではありません。服装も普通、物欲もあるように見えますが、それでも彼は“カウンター”の道を選ぶのです。両親世代の期待を理解しつつ、それに従えないとわかっているのです。大学を卒業して地元に戻るという意味ももちろんですが、「卒業」にはもうひとつ意味があるのです。両親や彼が育ってきたアメリカ社会からの“卒業”という意味です』

映画「卒業」の主題歌を歌ったのはサイモン&ガーファンクル。

主人公が愛欲に溺れた同級生の母ミセス・ロビンソンを歌った歌詞はこんな内容だった。

日曜日の午後にソファに腰かけたり
立候補者の討論会に出かけてさ
笑い飛ばしたり 叫んだりしても 選んだ時には
どれ選んでも負けてるんだよね

どこに行ったんだい? ジョー・ディマジオ
みんながあんたを求めてるのに
何を言ってるんです? ロビンソン夫人
彼はもう引退して  消えたよ

ちょっと意味不明だが、こんな意味が込められているという。

マリリン・モンローと結婚した偉大なメジャーリーガー、ジョー・ディマジオは、実力はもちろん紳士的な態度でアメリカ人の模範と言われた。

しかし、もうディマジオはいない。

模範的なアメリカ人などいないと若者たちは大人たちに反発したのだ。

1968年に公開された「猿の惑星」。

猿が人間を支配する惑星に辿り着いた宇宙飛行士の主人公が、実はそこは核戦争後の地球だったことを知る衝撃のラストシーンが強烈に印象に残っている。

アンダーセン氏『60年代後半には文化的な革命が起こりました。60年代は極端に新しいものを受け入れた時代でした。ですがそれは極端すぎました。変化が大きすぎたのです』

60年代の最後の闘争を起こしたのは同性愛者たちだった。

その当時、イリノイ州を除く全米で同性愛は違法とされていた。

1969年6月、同性愛者が警察に対し暴動を起こした「ストーンウォールの反乱」はLGBTの権利獲得運動の起点となった。

その頃公開された映画「真夜中のカーボーイ」は、貧困、麻薬、同性愛など都会の暗部が全て詰め込まれたような作品だった。

シュルマン教授『今まで作品賞を獲った映画の中で唯一成人指定を受けた映画です。言葉遣いや性を描いたこともありましたが、あの時代に本当に挑戦的な映画だったと思います。男性による売春の映画で、薬物中毒や障害を抱えた路上生活者が描かれています。そして人間性の暗い一面、都市の暗黒面を描いている映画です』

その救いのない映画は当時のアメリカの空気を反映していて、私が思春期を迎えた頃の日本にも同じような空気が漂っていたように感じる。

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60年代の幕開けにケネディが約束した通り、1969年7月20日、アメリカはアポロ11号で初めて人類を月に送り込んだ。

『これは人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である』

有名なアームストロング船長の言葉にまだ子供だった私も興奮したものだが、あの頃のアメリカはすでに病んでいたのだ。

そして月面着陸の1ヶ月後に開かれた「ウッドストック・フェスティバル」。

私もハマったジミー・ヘンドリックスらが出演した伝説の野外ロックコンサートである。

40万人の若者が集まり、愛と平和、そして反戦を共有した。

「ウッドストック」が象徴したラブ&ピースのヒッピー文化は私の青春そのものであり、前にも後にもあの時代だけが持っていた自由ではちゃめちゃで反体制的な空気が私という人間を作ったのだ。

シュルマン教授『全員が今でも60年代の影響下にあります。そして60年代は今日の全てのアメリカの問題の発祥の時代であると考える人が大勢います。ですが同時に、解放の時代の始まりだったのです。アメリカの自由と民主主義は達成可能だと、正しい方向に進めると信じられた時代でした』

アンダーセン氏『60年代後半は誰もが失望している状況でした。社会が変化しなかったことと、若者の夢が叶わなかったことが一緒になっているのです』

こうして振り返ってみると、まだ子供だった60年代が私の中に想像以上に入り込んでいたことに気づく。

この番組で紹介された映画のほとんどは70年代に入ってから名画座で見たんだと思う。

まだ感受性の強かった私に、この時代のアメリカ映画は人生を教えてくれた。

アウトローがヒーローになり、偽善者ぶった大人たちが私にとっての悪となった。

お金のためでも出世のためでもなく、世界平和のために私は生きようと思った。

そして60年代後半は、アメリカだけでなく世界中で若者たちが大人たちに対して声を上げた時代でもあった。

パリでも、東京でも、若者たちが街頭に繰り出し警官隊と戦った。

60年代を貫くこのエネルギーはどこから来たのか?

今思えば、その最大の要因は若者の数が単純に多かったということに尽きる気がする。

第二次対戦後、世界中でベビーブームが起き、戦後20年経って彼らが若者となったのが60年代だったのだ。

日本では団塊の世代が成人を迎えた。

若者の多い社会は活気に富み、新しい価値観が次々に生まれるが、同時に情緒的で危うさも秘めている。

超高齢化した今の日本とは対極にある社会。

私は全ての古い価値観が破壊される社会の中で自らの人格を形成していった。

中学生の頃から映画にハマり、部屋中に映画のポスターを貼っていた思春期の私に、60年代のアメリカ映画がどれだけ強い影響を与えていたのか、この番組を見て初めて認識させられたと言っていいだろう。

1963年、ケネディ暗殺の3ヶ月前に行われた首都に25万人を集めて行われた「ワシントン大行進」。

そこで、「I have a dream」で知られるキング牧師の有名な演説が生まれた。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

引用:キング牧師「I Have a Dream」より

今日、改めて聞いても感動するスピーチである。

そしてこの言葉が訴えることは、単に黒人差別にとどまらず、あらゆる偏見や差別、格差のない社会という理想に通じるものだ。

なんとも素晴らしい理想ではないか。

しかし、60年代のアメリカを象徴するキング牧師も1968年4月、遊説活動中のテネシー州メンフィスで暗殺された。

果たされなかった60年代の理想は、今も私の胸の中に消えることなく残っている。

これこそ私が生きた時代、私の原点である。

こうして自分が生きた時代を振り返ってみると、その時には若すぎて感じられなかった意味が見えてくるように感じる。

これからも、さまざまな映像や書物に触れて、私が生きた時代を検証してみたいと思う。

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