正義の体系

司馬遼太郎さんの本を読んでいると、いつも唸ってしまうような文章に出くわす。

今日読み始めた司馬遼太郎著『「明治」という国家』の第1章に登場する文章も秀逸である。これは書き留めておかねばならないと思い、このブログに引用させてもらうことにした。

『 右にせよ左にせよ、60年以上もこの世に生きてきますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーを、日本訳すれば、“正義の体系”といってもよいでしょう。イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。キリスト教では唯一神のことを大文字でGodと書きます。絶対であるところのGod。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるがために大文字で書かれねばなりません。頭文字を大文字でFictionと書かれねばなりません。ここで、ついでながら、「絶対」というのは「在ル」とか「無イ」とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。「在ル」とか「無イ」とかを超えたものが“絶対”というものです。そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり“正義の体系”というものです。イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。いま戦時中の新聞を、朝の食卓でコーヒーをのみながらやすらかに読めますか。あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。ヒトラーの「わが闘争」を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。すべては、時代がすぎると、古いわらじのように意味をなさなくなるものらしいですね。

昭和元年から同20年までは、その二つの正義体系がせめぎあい、一方が勝ち、勝ったほうは負けたほうの遺伝子までとり入れ、武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人がつくった国家をこなごなにつぶしました。』

「イデオロギー」=「絶対のうそ」とは、まさに私がいま強く感じていることそのものだ。

「絶対」という言葉の持つ危険性。

それが国家と結びついた時、「絶対」という言葉は奇妙な美しい輝きを見せ人々を魅了する。しかしそれは、危険な光だ。

トランプさんの“絶対的”支持母体であるキリスト教福音派も、ある種のイデオロギーの塊だ。

「絶対」なるものを信じた人々は、他人の言葉を受けつけない。知ろうともしない。無知であることを恐れない。同じ仲間だけで、「絶対」なるものの話をして、お互いにうなずきあうのだ。

ネット上の言論空間にも、この「イデオロギー」を強く感じる。

いったん「悪」と認定された人を集団で暴行する。そこには絶対的なイデオロギーがあり、正義の体系がある。

「正義」とは何か?

「正義」は重要だが、私の「正義」はおうおうにして、あなたの「正義」とは違う。

「絶対的な正義」が登場した時、人類は危機に瀕する。

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