林住期

京都鉄道博物館の内覧会に招待され京都に日帰り出張した。

img_1466

京都に向かう新幹線の中で、読みかけのまま放置していた五木寛之著「林住期」を読んだ。

50歳から75歳を「林住期」と呼び、この時期こそ人生の絶頂期であると説くこの本。すでに「林住期」真っ只中の身としては、妙に琴線に触れるものがあり、改めていつ会社を辞めるべきか考えてしまった。

さて50歳の時、私は何をしていただろう?そんな疑問が浮かんだ。記憶を遡り思い出してみることにした。

若い時の記憶は、なぜか年号とセットで脳に記録されている。

入社は1982年。御巣鷹山事故は85年。バンコク支局赴任とフィリピン革命は86年。帰国して警視庁クラブに行ったのが88年で、89年秋に初めて番組制作に携わり、ベルリンの壁が崩壊した。90年、二度目の警視庁クラブの時、湾岸戦争取材をうらやましく眺め、92年にパリ支局長となった。そして96年に帰国し、夕方ニュースの編集長を務めることになった。ジャーナリストとして少し取材に自信がついてきた時期だっただけに残念で仕方がなかった。後から思うと、ここから人生は自分のイメージからずれて行った。

2001年の正月、編成局に異動してからは記憶と年号がうまく結びつかなくなる。サラリーマンとして流されていたということなのか、仕事にメリハリがないということなのか、自分でもよくわからない。

京都に向かう新幹線の中で自分のキャリアと年号を結びつける作業を続けた。私の林住期を整理しておく。

50歳になった2008年に事業局に異動した。初めての部署で、舞台やコンサートなどライブエンターテインメントの仕事をすることになった。仕事は楽しかったが金儲けの厳しさも痛感した。

再び報道局に戻されたのは2010年、翌年には東日本大震災が起きる。100時間を超えるテレビ史至上最長の報道特番を指揮したことは忘れられない。

そして2012年に情報制作局、2015年にはグループ内の番組制作会社に異動となった。

厳しい時期もあったが、全体としては楽しい会社人生だった。まだ、終わってはいないが、そろそろ引き際を考えなければならない。

img_1474

林住期突入から、はや8年が経った。五木氏が指摘している通り、確かに林住期は「人生のクライマックス」と言えなくもないと感じている。決して沸き上がるような高揚感がある訳ではないが居心地は悪くない。個人的には、現在の自分の状況を気に入っている。

もちろんニュースの現場を駆け回っていた時期の方が記憶は強烈で、皆からうらやましがられる恵まれたキャリアだったと思う。しかし今から思えば毎日分からない事だらけで自信もなく、現場でうまくやれるかいつも不安だった。

それに比べて今は余裕がある。心が常に平静である。仕事量も減り、プライベートも穏やかで、物事をじっくり考える時間があることがその要因かもしれない。いろいろな事態への対処や人間関係の整理も昔よりうまくなったのかもしれない。それとも自分の感情のごまかし方がうまくなったのか。

本を読みながら、潔く60歳で会社を辞め、自分の気持ちの赴くままに残りの人生を生きてみたいと思った。

ヨーロッパやハワイ、日本各地を、テーマを持って取材し自らのブログで発表すること、巨大な隣人・中国を継続取材すること、自分のルーツを調べること、会員制の農業クラブを実現すること、吉祥寺を拠点に自分のやりたい活動を立ち上げること。イメージはどんどん膨らむが、心配事はやはり金だ。老後破産だけは御免被りたい。

夫婦共にそれほど金遣いが荒い訳ではないので、節約すれば何とかやっていけるだろうか? それとも東京五輪までは働いて、テレビ屋人生の総決算にした方がいいのか? それとも現実的に、住宅ローン完済までは安定収入を確保すべきか?

img_5618

退職時期については結論が出ぬまま、今日のところは、充実した林住期を過ごせるよう今からできる準備を始めることだけを決めた。
写真撮影の勉強、ウェブの知識取得、そして毎日のブログの習慣。4月17日から始めたランニングも今後できるだけ毎日続けること。

出張から帰り、公園一周のランニングを終えた後、池のほとりに眺めの良いベンチをみつけストレッチをした。頭上には新緑のもみじが広がっていた。このベンチには「祝卒寿 大賢は愚かなるが如し」と書かれた寄贈者のプレートが付けられている。

もし自分が90歳まで生きたら何を考えるのだろうか。今は想像もできない。先のことは必要以上に考えても仕方がない。まずは、その時々の気持ちに素直に自然体で生きて行きたいと思う。

1件のコメント 追加

コメントを残す