年末に帰省した。
羽田は混み合っていた。
空港の混雑ぶりは景気の一つのバロメーターでもある。
薄い雲が少しかかってはいるが東京上空には青い空が広がっていた。
山頂に雪を頂いた南アルプス。その先に伊那谷がある。
東に南アルプス、西に中央アルプス。この伊那谷も私が行きたい場所の一つだ。
今回の帰省、例年通り裏山の管理が一つの目的だった。
竹やぶは切っても切っても伸びてくる。久しぶりに訪れると、竹が道に覆いかぶさっていた。
道沿いの竹をチェーンソーで切っていく。手前を切ると、奥の竹が倒れかかってくる。本当に始末に負えない。
2日約5−6時間格闘し、100本以上の竹を切った。焼け石に水ではあるが、とりあえず道は通りやすくなったので、今回はここまでだ。完全リタイアした後、数週間頑張ればきれいになるだろう。
道端に懐かしい植物を見つけた。この青い実が私の子供時代のおもちゃだった。
「ふっくんだま」と呼んでいた。正式名称は知らない。この青い実を竹鉄砲に詰めて飛ばす。私は不器用だったので竹鉄砲を作った記憶はなく、友達か家族の誰かに作ってもらったのだろう。その竹鉄砲を手に近くの子供たちと一緒に「ふっくんだま」を探しては友達に向かって撃った。素朴な時代、ほんの50年あまり前のことだ。
今回の帰省で一番印象的だったのは、グループホームに入った通称「片上のおばちゃん」を見舞ったことだ。母の妹に当たる。
母と「宿のおばちゃん」を車に乗せて3人で行った。
ホームは小規模だが、明るく気持ちの良さそうな施設だった。中に入ると、食堂のようなスペースに入居した高齢者が集まっていた。ここで1日過ごすようだ。
商売上手でチャキチャキだった叔母は、ずいぶん痩せて一人では歩けなくなっていた。ヘルパーさんに支えられてゆっくりと自分の個室に歩いて行った。ここで1時間ほど話をすることができた。
あんなに快活だった叔母の顔から表情が消えていた。終始、口をもぐもぐさせている。
それでも、声はしっかりしていて喋り方も昔と変わらない。ただ言葉が出てこないらしく、相槌を打つ程度で何かを説明しようとすると、かなかな意味が伝わらない。
ホームの廊下にはこんな歌詞が貼られていた。
「宿のおばちゃん」はちょっとショックを受けたようだった。
「あんな所で一日何もせずにじっと座ってたらボケてしまうわぁ」と言った。ずっと一人で田畑を守ってくれている「宿のおばちゃん」は「片上のおばちゃん」より5歳ほど年上だ。以前から年をとったら施設に入ると言っていた伯母だが、今回グループホームを見て、やはりギリギリまで自宅で過ごしたいと考えるようになったようだ。
家に帰ると、母が2枚の白黒写真を引き出しから取り出した。
自分の父親の若い時の写真だという。つまり私の祖父である。
最後列の左から2番目、坊主頭のちょっといい男が祖父である。
まだ結婚前の家族写真。大正末期か昭和の初期のものだと思う。
もう一枚。これはもう少し後の写真だろうか?
後列の一番左が祖父、前列の一番右がその父親つまり私の曽祖父で中央右手の女性が曽祖母だという。
私の祖父は母が幼稚園の時に死んだ。祖母は2人の幼い娘を連れて実家に帰ったが、やはり母が小学校3年の時に病で亡くなってしまった。
後には、幼い娘2人が残された。祖父の弟(写真後列の一番右に写っている男性)が2人を引き取りたいと申し出た。その時、母の叔父にあたるその人はまだ独身だった。両家で話し合いが持たれ、結局、母は祖父の実家に、妹は祖母の実家に引き取られ別々に育てられた。その妹というのが今回お見舞いに行った「片上のおばちゃん」である。
そんな話はこれまで断片的に聞いてはいたが、なかなか頭に入らない。祖父も祖母も私が生まれる前に死んでいたので、名前すらはっきりと知らない有様だ。
そこで翌日、この写真を母に説明してもらいそれを動画で撮影することにした。最初ためらっていた母も次第にカメラを意識しなくなり、過去の記憶を引きづり出しながら幼き日の記憶を語ってくれた。祖父や祖母、さらには曽祖父や曽祖母の名前も確認できた。
曖昧だった私のルーツが少しだけクリアになった。私の弟や子供たちにも機会があればこの動画を見せてやろうと思う。
ちょっと有意義な時間だった。