<きちたび>妻の還暦を祝う旅④ 謎に包まれた出雲大社の起源と高さ48mの巨大本殿

出雲の旅の2日目、朝早く起きて一人で2度目のお参りに行く。

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正門に立って振り返ると、「一の鳥居」につながる「神門通り」はまだ静まり返っていた。

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この日は空一面雲に覆われ、すべての色が沈み込むような静けさに包まれている。

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参道から東に目をやると、三角の頂を持つ弥山(みせん)という山がある。

出雲大社はどうしてこの場所に造られたのだろうか?

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今回の旅に当たって、私は出雲に関する本を読んでみた。「出雲 古事記のふるさとを旅する」という本にはその歴史についてこう書いてある。

『出雲大社は、伊勢神宮などとともに日本で最も歴史のある古社のひとつであり、創建が古代にまでさかのぼることは疑いがない。しかし、具体的にいつということは難しい。神話的な由来は、「古事記」「日本書紀」の国譲り神話ということになっている。

国譲り神話を「古事記」でみてみると、まず、アメノホヒノミコトが高天原からの使者として地上のオオクニヌシノミコトのもとへ派遣される。しかし、三年間、復命を怠ったので、二番目の使者としてアメノワカヒコが遣わされることになるが、これも八年間、復命しなかった。そこで、タケミカヅチ・アメノトリフネの両神を天降りさせて国譲りを迫ったところ、オオクニヌシノミコトは子のコトシロヌシノミコトに決定権を委ねてしまう。コトシロヌシノミコトが同意すると、さらにもう一神の子であるタケミナカタノミコトにもきいてほしいという。そして、タケミナカタノミコトも同意するに及んで、オオクニヌシノミコトも国譲りに応じるのであるが、このとき付けた条件が自らの神殿の建設であった。これが他でもない出雲大社ということになる。

この由来とは別に、「出雲国風土記」には、ヤツカミズオミヅヌノミコトが国引きをおこなって出雲を作り終えたのち、神々が集まってオオクニヌシノミコトのために出雲大社を造営したという興味深い由緒が記されている。』

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どうも神話の世界から出ない。出雲大社についてはわからないことばかりなのだ。

だから、出雲に行ったらぜひ行きたかったのが「古代出雲歴史博物館」だ。妻は興味がなさそうなので、私一人で行ってみた。

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出雲大社の東隣の広大な敷地に博物館は建てられていた。立派な建物だ。

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博物館に入って正面に展示されているのが、ガラスケースに収められたこの木の塊だ。

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「宇豆柱」と呼ばれる出雲大社の「巨大本殿の柱」だという。

この塊は最近、出雲大社の境内から発見された。その時の写真がこちらだ。

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直径1.35mのスギ材を3本束ねて一本の太い柱を作り、巨大な本殿を支えたと考えられている。それらの巨大柱の残骸は境内3ヶ所から見つかり、その場所は今、本殿前の地面にはっきりと描かれている。

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赤い丸印3つを束ねてひとつの巨大柱とする。そしてその柱が見つかった場所は、本殿のすぐ前だったのだ。

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ミッキーマウスにも見える巨大柱の跡。21世紀に入って見つかった大発見に、出雲大社のいにしえの姿をめぐり専門家の間でもさまざまな説が展開され始めた。

 

 

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その根拠となるのが、「雲太、和二、京三」という言葉。「雲太」は出雲大社を表すとされ、奈良や京都の建物よりも高かったことを表現する言葉として解釈されている。

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重要文化財に指定されている「出雲大社并神郷図」には、高くそびえる本殿が描かれている。この絵図は鎌倉時代中期のものとみられており、その時代の出雲大社は今よりもずっと高い建物だった証拠と考えられている。

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さらに鎌倉から室町時代に描かれたとみられる「金輪御造営差図」。これは巨大本殿の設計図と考えられている。それによると、階段の長さは1町(約109m)もあったとされる。

この図面には3本の丸太を組み合わせて巨大な柱を作った様が描かれているが、その証拠が最近になって掘り出されたのだ。大昔の人の宗教的な空想とみられていた資料が、現実のものであった可能性がにわかに強まったのだ。

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そうした資料を総合して再現された模型が博物館に展示されている。

「平安時代の出雲大社本殿」と題されたこの模型は、縮尺が10分の1。大林組のプロジェクトチームが1989年に公表した設計案に基づいて復元した模型であると書かれている。

最近テレビでも紹介されることの多い天にも届きそうな超高層の社殿である。

全高48m、階段は172段で長さ109m。本殿を支える柱は直径3m〜3.6m、高さ36m〜42mとなっている。

大林組は、古代の出雲大社を再生させる野望を抱いているようだ。将来、彼らの夢は実現するかもしれない。そうなれば、出雲は日本有数の観光地になるだろう。

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しかし興味深いのは、研究者によって巨大本殿のイメージが違うことだ。博物館には5人の専門家による5種類の再現模型が展示されていた。

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果たして本当はどんな建物だったのか。素人にも興味がわくロマンあふれるテーマである。

ぜひ大林組には頑張って再建してもらいたいものだ。

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一方、この地になぜこのような大きな社が築かれたのかについてもまだ解明されていない。出雲は長く神話の国であり、考古学的な研究が進んでいなかった。ところが、最近になってこの出雲で大発見が相次いでいるのだ。

「出雲 古事記のふるさとを旅する」の中に、作家の松本侑子さんのこんな文章がある。

『記紀という歴史書に記載はあっても、かつては考古学の物証が少なかった。古代勢力は禁忌と北九州の二大圏とされ、その狭間で出雲は長らく不可解な地域とされ、無視されてきた。

しかし1984年、荒神谷から銅剣が358本出土。全国の発掘総数三百本をこえる数で、弥生時代の青銅器圏は畿内と北九州という通説を覆した。1996年には、加茂岩倉から国内最多の銅鐸39個が出土。出雲は日本最大の青銅器文化圏だったと判明したのだ。』

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博物館には、この358本の銅剣すべてがが展示されている。

剣の長さは50cm前後、紀元前2〜1世紀の弥生時代のものとされ、国宝に指定されている。この銅剣が発掘された荒神谷遺跡は、出雲大社と出雲空港の間に位置する。

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そして加茂岩倉遺跡から発掘された銅鐸も展示されている。こちらも紀元前2〜1世紀の弥生時代のもので、やはり国宝に指定されている。

加茂岩倉遺跡は出雲空港の南方に位置する。荒神谷遺跡とも近く、このあたりに一大青銅器文化圏があったことになる。

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こうした銅剣や銅鐸と同じ紀元前2〜紀元1世紀のものと推定される銅戈と勾玉が、出雲大社の近くでも見つかっている。銅戈は九州、ヒスイ製の勾玉は北陸との交流を物語るという。弥生時代にもこの地が聖なる場だったことの証と考えられている。

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これらは出雲大社の東200mにある「命主社(いのちぬしのやしろ)」の大石の下から銅戈と勾玉は出土した。出雲大社の摂社にあたる小さな社である。

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天地開闢の造化三神の一柱「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」を祀っているが、むしろ社の前に生える樹齢1000年とも言われるムクの巨木が有名だ。

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ムクの巨木からはただならぬ霊気のようなものを感じる。古代の日本人は神羅万物に神を見たと聞く。このような木も信仰の対象になったのだろう。これは現代人にも理解できる感覚である。

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博物館には「馬上の大酋長」の像も置かれていた。遺跡からの出土品をもとに、6世紀後半の出雲の豪族の装いを再現したものだという。

出雲大社がいつ築かれたのかは未だ謎だが、その時代この地にかなり高度な文化が花開いていたことが次第に明らかになりつつある。

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天皇家を中心に語られてきた日本史の中で「無視」されてきた出雲の歴史にこれから光が当てられることになりそうだ。

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平成の大遷宮を終えたばかりの出雲大社本殿。次の式年遷宮は60年後となる。

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その時までには出雲大社の謎は解明されているかもしれない。

そして次の遷宮では、高さ48mのかつての姿がよみがえるかもしれない。

この世で見ることは叶わないが、あの世からでも見てみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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