源義経

古来、人間の営みというのは大して変わらない。

司馬遼太郎著「義経」を読んでいる最中に、民進党の山尾志桜里議員のスキャンダルが飛び出した。人生のピークで自らの行動で身を滅ぼす。何か共通する部分を感じた。

私は、義経や弁慶の名前や簡単なストーリーはもちろん知っていたが、さほど興味を持ったことはなかった。この本で描かれる義経は、ちょっとイメージと違った。

軍事では天才、政治では痴呆。これが司馬さんが描く義経だ。兄の頼朝がなぜ自分を疎んじるのかがまったく理解できない。それを指南する側近もいない。それが義経の悲劇だと描く。

義経はなぜ、これほどまでに後世の日本人に愛されているのか?

司馬さんは、こんなことを書いている。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし京に凱旋した後のことである。

『 義経は、一朝にして高名になった。

「古今に類なきこと」と、諸事ものごとを小うるさく論評する右大臣九条兼実も、義経のこの人気の異常さにはなはだあきれ、ひとりの人間がこれほどまで人気を得るという現象は古にもなく、今にもためしがない、といっている。

むりもなかった。日本人はこれまでに人気者というものをもったことがなかった。義経においてはじめて持った。

これまでこの国で名を得た者は、朝官としてしかるべき官位、威権があらかじめあり、その地位によって功業をなし、名をあげた。関白道長、平清盛などがそうであろう。しかし義経は源氏の脇腹より出たという伝説的な出自をもつだけでその前半生はまったく世間に知られておらず、いわば庶人の階層のなかで土にまみれていたというのに、兄の頼朝がにわかに鎌倉に非合法政権をつくるや、ついに平家を覆滅して都に凱旋した。義経は無名のなかから出、一躍人気を得た。そういう人間は古今にあったためしがない、と論評家の兼実はいうのであろう。

さらにこの人物は、その大功とは不釣り合いなほどに齢わかい。色白く、小柄で少年のようである。そのうえ立居振舞がどこか雅びている。そういう鄙武者らしからぬところも、坂東風を好まぬ京者の人気をかきたてた。』

こうした人気絶頂の義経は凱旋後、その後の悲劇につながる行動を自ら取っていく。

『義経は、一種の痴呆であったであろう。この種の下僚や下司たちの心理にはまったく鈍感であり、思ってみたこともなかった。

「自分は鎌倉どのの弟である」という、ほとんど架空にちかい雲の上にみずからすわっていた。その上、平家を討滅した。その大功が兄頼朝を狂喜させるであろうと信じ、その大功がかえって兄頼朝を戦慄恐怖させるであろうなどということは思ってもみなかった。都は晩春である。

義経はそういうことよりも、この駘蕩とした都の晩春の気分のなかでこの若者の癖といっていい情事に没頭した。かれは、すでに多くの寵姫を得ていた。彼が手に入れたのは平大納言時忠の娘わらび姫ばかりではない。久我大臣の姫君、唐橋大納言の姫君、鳥飼中納言の姫君など、多くの公卿の娘が彼の夜毎の伽をした。』

すなわち、凱旋した義経は、戦場で戦った部下たちの気持ちに寄り添うことなく、自らの性欲に溺れた。

中でも、平家の娘を妻にしたことは、義経の運命を暗転させた。

『最も憤激したのは、源氏の諸将であった。彼らは矢の雨をおかして平家と戦い、それをようやく覆滅し、捕虜を得、都に還った。ところが、その総帥は平家と外戚の縁を結んでしまったのである。しかも、鎌倉に対しては何の断りもしていない。

誰の結論も、当然ながら政略結婚であるとみた。義経は鎌倉に対して自立するつもりであろうとみた。義経の魂胆はおそらく時忠と姻戚になることによって平家の潜在勢力を利用し、京で地盤を固め、ゆくゆくは鎌倉の兄と対決するつもりであろうとみた。それが、大人である限りはごく常識的な観測であった。

鎌倉系の将士が、義経に接近することをおそれ始めたのは、この唐突な婚姻成立の日からである。』

こうした義経の行為は、後白河法皇に利用され、頼朝の不信を決定的なものにした。

『 義経が平家の婿になったという急報が鎌倉に入ったとき、鎌倉は右の次第によって極度に緊張したが、京の義経自身には何の関わりもない。義経は、堀川の館で毎夜その新妻を愛おしんだ。この信じられぬほどに痴呆な政治的無感覚者にとっては、世間がどうであるにせよ、わらび姫を抱くことは事件でも政治でもなく、単に彼の性的衝動であるにすぎない。』

最近、不倫で身を滅ぼす政治家や有名人が後を絶たない。

その多くは、事件でも政治でもなく、性的衝動に従った結果なのだろう。

昔、私がパリ特派員だった頃、フランスのミッテラン大統領に隠し子が発覚するという大スキャンダルを週刊誌がスクープした。しかし、フランスのマスコミは、政治家の私生活は政治家としての能力とは関係がないとして、まったく問題にしなかった。高級紙「ルモンド」などは「だから何なの?」という社説を掲げ、あくまでプライベートな問題であるとしてミッテラン大統領を擁護した。

時代が違う。国も違う。

今は非寛容な社会ではある。自らの行動が招く結果、よくよく考えて行動しなければならない。

純粋すぎる英雄の悲劇は、その後の日本人に様々なメッセージを残したのだろう。

 

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