窓から吹き込む風が気持ちいい。
窓辺に敷いたマットに寝転びながら、音楽を聴く。のどかな休日。最高の季節。ベランダに干した白いバスタオルが、時折、春風にそよぐ。
井の頭の桜も今年はもう終わりだ。大量の花びらが水面を漂う。
「閑適」という言葉を初めて知った。
漢詩の本には、こんな説明書きが添えられていた。
『詩人たちの多くは、官僚で宮仕えを経験している。競争や派閥争いに明け暮れ、ときに讒言によって陥れられることすらある。そんな生活の対極、官界を離れ静かにのんびり、心のままに生活するのが「閑適」である。』
思わず膝を打つ。
2000年前もオヤジの考えることは変わらないのだ。定年を前に自らの呼称を「吉祥寺のんびり村 代表」とした私の今の心境も、「閑適」という言葉で表すことができるのかもしれない。
「閑適」を代表する詩が陶淵明の「飲酒二十首」。五番目の詩を書き写す。
結盧在人境 いおりをむすんでじんきょうにあり
而無車馬喧 しかもしゃばのかしましきなし
問君何能爾 きみにとうなんぞよくしかるやと
心遠地自偏 こころとおければちおのずからへんなり
采菊東籬下 きくをとうりのもとにとり
悠然見南山 ゆうぜんとしてなんざんをみる
山気日夕佳 さんきにっせきによく
飛鳥相与還 ひちょうあいともにかえる
此中有真意 このうちにしんいあり
欲弁已忘言 べんぜんとほっすればすでにげんをわする
『 自分は隠者の暮らしをしていて、粗末な家を人里の中に構えている。人里の中なのに、人も来ないし、自分のほうからも出ていかないので、車や馬の往来のやかましさがない。人は言う、「あなたに聞くが、どうしてそんなことができるのか」と。それは、私の心が人里、世俗から遠ざかっているので、住む場所も自然と辺鄙になるのだ。 折しも晩秋の季節、菊の花を東の籬(まがき)のもとで採り、ゆったりとした気分ではるかに南の山を見る。山には、夕暮れの霞がたなびいてひときわ美しく、その霞の中へと、鳥が連れだってねぐらへ帰ってゆく。 このなにげない情景、この中にこそ人生の真意、真実があるのだ。それを説明しようとすると、そう思ったとたんに、説明すべき言葉を忘れてしまう。』
日本人も戦前まではこうした漢詩に親しんでいた。やたらと長寿がもてはやされる世の中になっても、人生の最後をどう生きるのか。人としての問いは時を超える。
きょう、マンションの防災訓練があった。80歳を超えるような高齢者も多い。
「閑適」。いい言葉に出会った。