X’mas

吉祥寺に来て初めてのクリスマス。せっかくなので目の前のカトリック教会のミサを聞きにいった。

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午前10時半からのミサ。教会は大勢の信者で埋まった。間違いなく400人以上はいる。私のような非信徒はあまりいないようだ。

賛美歌を歌い、聖書の一節を読む。キリストの誕生に感謝する。

ミサの終盤、信者たちが順番に前に出て聖体拝領を受ける。キリストの肉体とみなされるウエハースのようなものを神父から授けられ、口にする儀式だ。このウエハースは「ホスチア」というらしい。この聖体拝領、私も試しにやってもらおうと思い、信者の列に並んだ。私の番になり、ホスチアを受け取るために手を出すと、神父さんが戸惑ったように「カトリック教徒ではないですか」と聞く。「違います」というと、私の前で十字架をきりホスチアはあげられないという仕草をした。

ほかの人のやり方を見て手を出したつもりだったが、やはり作法が違っていたんだろう。ホスチアというのがどんなものなのか食べてみたかったのだが。

このミサに参加しながら思ったこと。それは宗教に関する素朴な疑問だ。

キリストの時代からおよそ2000年。釈迦や孔子はおよそ2500年、ムハンマドは約1400年前の人だ。モーセにいたっては3300年も前の人である。

どうしてこれほど昔の人の教えを信じる人がこんなにいるのか。その後に生まれた宗教はなぜ広まらないのか。よく考えるととても不思議だ。

ミサの冒頭、神父さんがシリアの話をした。戦争で苦しむ人たちに想いをはせることを呼びかけた。キリスト教徒にとって平和を祈ることは大事なようだ。ところが、歴史をみると、キリスト教の布教のためどれだけの戦争が起きたことか。世界中を植民地にしたヨーロッパの列強もキリスト教を広めるという大義のもとでアジアやアフリカ、アメリカ大陸に乗り出した。

アメリカ政治を動かすティーパーティーなどの保守派も敬虔なキリスト教徒を母体としている。愛と正義と平和のメッセージは、必ずしも世界を平和にしてはいないような気がする。むしろ、日本の縄文時代のような八百万の神をあがめるアニミズムの方が、人は平和に暮らせるのではないかと疑いながら神父さんの話を聞いた。

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ランチの後、年末に会食する予定の弟一家へのプレゼントをさがす。私の行きつけのチョコレート屋さん「Lints」でチョコの詰め合わせを買う。20種類のチョコから好きなものを選んで詰め合わせることができる。色がカラフルで女の子には喜ばれるだろう。

そして、年始に会う孫たちへも何かプレゼントを用意しようと「アトレ」に探しにいく。まだ小さいのでお年玉のお金よりも小さなお菓子の方がいいかと思ったのだ。私はカワイイ金属製の缶に入ったキャンディーがいいと思ったが、妻となかなか意見が合わない。ついにしびれを切らした妻は私に「先に帰って」と言った。ひとりで探した方が早いと思ったらしい。

妻は買い物が嫌いだ。すぐにイライラしてくる。ここで争うとさらに面倒になるので、プレゼント選びを妻に任せて先に帰ることにした。夫婦での買い物は常に喧嘩の原因になりやすい。

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「アトレ」は昔「ロンロン」という名前だった。今もそのなごりで、アトレの食品売り場には「ロンロン市場」という名前が残っている。もうすぐお正月。数の子などお正月商品もたくさん並べられていた。いつも通り、買い物客であふれかえっている。

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夜はきょうも全日本フィギュアを見る。浅田真央は惨敗。見ていて胸が苦しくなった。

そしてNHKスペシャルは「プラネット・アース」のシーズン2がきょうから始まった。イギリスBBCを中心に世界中の一流カメラマンが4年間かけて撮影した4K映像はまさに圧巻だった。

これまで全く見たこともない考えられないような映像の数々。色彩の処理もすばらしい。一体いくら制作費を使ったのだろうか。この映像が撮影されるまでのカメラマンの苦労が容易に想像がつく。それでもこれだけの映像が撮れるのなら、カメラマンにとっては本望だ。むしろこれだけの仕事をさせてくれる環境に感謝したことだろう。

テレビにはまだまだ大きな可能性がある。しかし、そのためにはお金が必要だ。さて、どうするか。

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